十字架に現れた贖いの道 – 張ダビデ牧師

 十字架にかけられたイエス・キリストの出来事は、聖書全体を貫く救いの核心であり、人類の罪と神の愛が劇的に交差する場であると言えます。特にヨハネの福音書19章17節から27節に記録されたイエス様の十字架刑の過程は、他の福音書よりも簡潔でありながら非常に力強いメッセージを伝えています。本本文では、イエス様がゴルゴタと呼ばれる“髑髏の丘”へ行き、十字架につけられる場面がごく短く描写されていますが、その中には計り知れない悲劇と同時に、罪人に対する神の深い愛がありのままに示されています。そして、この場面を黙想するすべてのキリスト者は、イエス様が歩まれた「十字架の道」がいかに苛烈で無残なものであったかを思い起こしつつ、その道がまさに自分のための贖いの道であったことを悟らなければなりません。
 張ダビデ牧師はこの本文を通して、私たちに「イエス様が十字架につけられた時に現れたすべての出来事と姿は、神の御子であるイエス様の無限のへりくだりと献身、そして罪に穢れた世の残酷さを同時に示す証言」であると強調します。この御言葉を土台に、十字架へ向かうイエス様の足取りとその傍らにいた人々、そしてその場に動員されていたローマ兵士たちの姿を一つひとつ深く掘り下げてみたいと思います。ただ一つの小見出しとして、「十字架につけられる」という大主題のもとに、すべての内容を統合して整理しながら、その中に含まれた普遍的かつ永遠の福音の真理と教訓を共に探っていきましょう。


1. イエスが十字架に引き渡される過程

 イエス様が十字架に引き渡される過程を見ると、まずイエス様はピラトの法廷でユダヤ人たちの激しい圧力と偽りの讒訴(ざんそ)によって死刑宣告を受けます。ピラトはイエス様に罪がないことをある程度感じ取ってはいましたが、結局ローマ総督として自らの地位を守り、ユダヤの指導者たちや民衆の暴動を防ぐために、イエス様に十字架刑を宣告してしまいました。それにもかかわらず、ピラトが下した決定の中で変わらなかった一つのことがありました。それは、十字架の上に「ナザレのイエス ユダヤ人の王」という札を貼るという行為でした。ユダヤ人の大祭司や指導者たちは「自称ユダヤ人の王と書け」と抗議しましたが、ピラトは「私が書いたものは書いたままにしておけ」と断言し、イエス様がユダヤ人の王であることをむしろ宣言する形になりました。
 張ダビデ牧師はこの場面を「アイロニー(皮肉)の中に表された真理」と呼びます。ローマ総督ピラトは政治的な計算によってイエス様を十字架に追いやったものの、同時に“真の王”がイエス様であることを自らの手で宣言させられたからです。人間の判断や罪深い思惑が絡み合う歴史のただ中においても、神の摂理は明らかになる場面といえるでしょう。


2. イエスが背負ってまれたゴルゴタの道と贖罪の背景

 イエス様が十字架を背負って歩まれたゴルゴタの道は、ユダヤの伝統的な罪意識とも密接に関わっています。旧約のレビ記16章には「贖罪日」に関する規定が記されています。大祭司は山羊を二匹用意し、そのうち一匹は主にささげる贖罪のいけにえとし、もう一匹は民全体の罪を負わせて荒野に追い出します。罪なき動物が人々の罪を代わりに負って死へと追いやられる、あるいは荒野に放逐されて殺されることで、イスラエル共同体が罪の赦しを受けるのです。このように「スケープゴート(贖罪の山羊)」の死によって民の罪が赦されるというユダヤの伝統は、イエス様の十字架の出来事によって究極的かつ永遠に完成を迎えます。イザヤ書53章もまた、この「苦しむしもべ」のイメージを予言しています。「彼が刺し通されたのは、私たちの咎のためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの不義のためである(イザヤ53:5)」と。主はまるで屠り場に引かれていく子羊のように、何もおっしゃらず黙々と苦難の道を歩まれました。そしてその道が完成した場所がゴルゴタの丘でした。
 張ダビデ牧師はイザヤ書53章とヨハネの福音書19章を合わせて黙想しながら、「イエス様がゴルゴタで十字架を背負って歩かれた時こそ、イザヤ預言者が見た苦難のしもべの預言が成就する現場であった」と強調します。ここで私たちが注目すべきは、主が罪人が負うはずの十字架を直々に背負って歩かれたという事実です。十字架刑は古代ローマの死刑制度の中でも最も残酷で恥辱的な方法でした。ローマ市民権をもつ者はこの刑に処されることはなく、主に被支配民族や極悪犯に宣告され、死刑囚は自分が死ぬ刑具である十字架を自ら担いで街中を回り、処刑場へ向かいました。それは罪人に最大の屈辱を与えると同時に、市民に「反逆すればこのように死ぬ」という警告を与える残酷な意図が込められていました。
 さらにイエス様はすでにユダヤ人たちによる鞭打ちや暴行、あざけりと侮辱によって身体が深刻に疲弊している状態でした。それでもイエス様は黙々とその道を歩まれました。


3. 十字架を代わりに担いだクレネ人シモンの意味

 マタイの福音書27章やマルコの福音書15章によれば、イエス様が十字架を背負って行かれるうちに、あまりの衰弱ゆえ倒れこんでしまわれたため、ローマ兵がクレネ人シモンを無理やり引っ張ってきてイエス様の十字架を代わりに担がせました。シモンは北アフリカのクレネ、すなわち現代のリビア地域から来ており、過越の祭りを迎えてエルサレムに巡礼のためにやって来た際、偶然イエス様の極刑の場面に遭遇したのです。彼は異邦人で、特別な意図があったわけでもありませんでしたが、結果的にイエス様の十字架を担うという“光栄”(?)であり同時に苦しい経験をすることになりました。マルコはシモンを「アレクサンドロとルポの父」と紹介していますが、後にローマ16章13節でパウロがあいさつしている「ルポ」という人物がシモンの息子である可能性が高いとされています。これを通して教会の伝承では、シモンとその家族が十字架の出来事の後、キリスト教共同体の重要なメンバーになったと推定します。
 張ダビデ牧師は「ある人は十字架を無理やり担わされるが、その強制の状況でも主の苦難を共に体験するとき、むしろそれが祝福の通路となる」と説明します。シモンは本来、旅行者として一時的にエルサレムに滞在していただけかもしれません。しかし十字架を担いだあの体験が、彼の人生と家族を変化させたのです。


4. 十字架行列で極まる人間の暴力性とイエスのへりくだり

 このように、イエス様の十字架行列は人間の悪しき制度と権力の暴力性、そして無関心な群衆の視線のなかで頂点に達します。衣服をはぎ取られ、茨の冠をかぶせられ嘲弄され、棒や鞭で打たれながら、カルバリの丘(ゴルゴタ)までその苦しみを耐え忍ばれました。カルバリ(ゴルゴタ)はヘブライ語で髑髏を意味し、むごたらしい処刑の場所という名にふさわしく、辺りには処刑された者たちの骨や髑髏が転がるおぞましい所でした。ユダヤの宗教指導者たちはイエス様を極悪犯と同列に並べようとして、二人の強盗をイエス様の左右に配置し、よりいっそうイエス様を侮辱しようとしました。しかし皮肉なことに、イエス様が両側の強盗の間にかけられたその姿は、かえってイエス様の無罪性と神の救いのご計画を劇的に際立たせる場面となりました。十字架は世の人々にとっては恥と嘲りの象徴でしたが、イエス様を信じる者にとっては救いの力と恵みの御座となるからです。イエス様は強盗たちと同じ刑罰を受けながらも、実際には罪がないにもかかわらず私たちの代わりに死なれた真の犠牲のささげものになってくださいました。


5. 「ナザレのイエス ユダヤ人の王」の札にこめられた

 ヨハネの福音書19章19節以下には、ピラトが書いた名札「ナザレのイエス ユダヤ人の王」について、大祭司たちが憤慨する場面が登場します。彼らは「自称ユダヤ人の王と書け」とピラトに抗議しますが、ピラトは「私が書いたものは書いたままにしておけ」と釘を刺します。この短い対話の中には、一度決まってしまった「ユダヤ人の王」という称号は取り消せないという暗示があります。イエス様は実際にユダヤ人の王として来られたにもかかわらず、ユダヤの宗教指導者たちはそれを拒み、むしろローマ総督ピラトを通してその表現を撤回させようとしました。しかしピラトは自らの権威で書いた文言を覆さなかったので、結果的に全世界に「イエスこそ真の王である」ということを、ローマ語(ラテン語)、ギリシア語、ヘブライ語の3つの言語で同時に知らせる形になったのです。福音書の著者ヨハネは、この出来事に含まれる象徴的な意味を十分に認識しており、読者たちが「十字架の上で完成された神の王権」を理解するように記述しています。
 張ダビデ牧師はこれを「神は人の悪意や小賢しささえも、ご自身の救いのご計画を顕す道具として用いられる」と説明します。すなわち人間は神の摂理を離れ、他の道に進むことはできない存在であり、イエス様を殺すという不正な行為さえも、究極的には神の主権と目的を実現する経路となるということです。


6. 十字架の下でイエスの衣服を分け合う兵士たちと「完全な空(くう)」

 続いてヨハネの福音書19章23節以下では、兵士たちがイエス様の衣服を分け合う場面が記録されています。当時、十字架刑を執行する兵士たちは、死刑囚の最後の所有物を自分たちで山分けする慣習がありました。イエス様の衣服も、四人の兵士がそれぞれ一部ずつを取り、継ぎ目なく織られた下着については裂かずにくじを引いて誰のものにするかを決めました。ヨハネはこの場面を詩編22編18節(「彼らはわたしの着物を分かち、わたしの衣をくじ引きにする」)と結びつけ、旧約の預言が成就したことを示しています。
 しかしこの姿のなかで、私たちが見逃してはならない一つの事実があります。それはイエス様が世において持っていたすべてを奪われ、最後に身を覆う衣さえも兵士たちが分け合おうとする場面が展開しているということです。これは「完全なる放棄」の極みにほかなりません。イエス様は公生涯の間にも「頭を置くところさえなかった」(マタイ8:20)と記録されていますが、最後に息を引き取られる直前には、本当に何ひとつ所有されないまま十字架にかけられたのです。
 張ダビデ牧師はこれを「神であるイエス様がすべてを喜んで捨てられて、究極的には私たちのための贖いのささげものとなられた証拠」と語ります。イエス様は最後の最後までどんな所有権も主張されず、ただ私たちの罪の代価を支払う犠牲として残られたのです。


7. 貪欲な兵士たちと何も持たれないイエス

 この場面で私たちは、二つの対照的な姿を見ることができます。一つは、十字架の下でイエス様の最後の衣服までくじで手に入れようとする兵士たちの貪欲な姿、もう一つは、何ひとつ所有されないまま、すべてを私たちに明け渡してくださったイエス様の姿です。世の中は貪欲な兵士のように他人のものさえ奪い取ろうとしますが、イエス様はご自分の権利を主張されず、すべてを私たちのために差し出されました。この対比は、すなわち人間の罪性の顕著な一面と、神の愛がいかに完全な犠牲であるかを同時に思い起こさせます。したがってキリスト者は兵士たちのような姿ではなく、十字架の上ですべてを注ぎ出されたイエス様の歩みを心に刻むべきです。これは、今日の「所有」に執着する現代人にとって強烈な挑戦を与えます。貪欲から離れ、十字架のイエス様を見上げながら謙遜と分かち合い、そして自己犠牲の道を歩むことこそが、本当のキリスト者の生き方です。
 張ダビデ牧師は「教会がしばしばイエス様の十字架のもとでさえも、各々が分け合う分を巡って争っているような姿と似てしまうことがある」と指摘し、「私たちはいつでも十字架の下で『何ひとつ所有されなかった』主を仰ぎ見て、所有と貪欲を悔い改めて捨てる決断へと進まなければならない」と勧めます。


8. 十字架のそばにいた女性たちと「互いを委ねる」イエス

 次にヨハネの福音書19章25節を見ると、イエス様の十字架のそばにいた幾人かの女性たちの名が登場します。イエス様の母マリア、イエス様の叔母サロメ(マルコの福音書によればゼベダイの息子ヤコブとヨハネの母でもあるとされる)、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアがその現場に立っていました。一般的に、当時の女性たちは社会的地位が低く、男性の弟子たちのように公的な弟子としての召しを受けてはいませんでした。しかし、皮肉にも十字架の最後の現場にまで残ったのは、まさにこの女性たちでした。そこは極悪な処刑が行われる恐ろしい場所でした。十字架に処刑される罪人の近しい者と思われれば、ローマ当局から連帯責任を問われる可能性もある場所でした。それにもかかわらず、彼女たちはイエス様の最期の瞬間を見守るためにそこに留まったのです。これは「愛のうちには恐れがない」(第一ヨハネ4:18)という御言葉を生々しく証しするものです。
 張ダビデ牧師は「真に主を愛する心があれば、いかなる脅威や恐怖もその足を止めることはできない」と語ります。そしてイエス様はこの女性たちを見つめられながら、母マリアと愛する弟子ヨハネとに互いを委ねられます。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。ご覧なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26-27)というこの御言葉は、イエス様がご自分の肉の母に対して最後まで配慮を示された深い孝心を表すと同時に、キリストの共同体の中で「信仰によって結ばれる新しい家族」の概念を提示する節でもあります。


9. 十字架の上から示される「新しい家族」と神のの共同体

 実際、イエス様は公生涯の中で「私の母とは誰か、兄弟たちは誰か。誰でも天の父の御心を行う者が私の兄弟、姉妹、母なのだ」(マタイ12:48-50)と語られました。イエス様にとってマリアは肉体的な母でありつつも、主の道を歩むべき信仰の弟子の一人でもありました。ゆえに十字架上で「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と呼びかけられた時、それは単なる肉親的な母子関係以上の意味を帯びています。イエス様を信じ従う者ならば、誰でも神の子として互いを顧みるべきであり、主にあって一つの家族となる、ということを宣言されたのです。このようにイエス様は、十字架上の極限の苦しみの中でも神の国の共同体の原則を確立され、残される者たちに対する愛を最後まで与えられました。


10. イエスの生涯を締めくくる十字架の出

 十字架の出来事を通して、私たちはイエス様の生涯全体が一つの大きな叙事詩のように完成される瞬間を目撃します。イエス様は受肉(肉体を取って人となられる)されることで私たちと同じ身体を持ちながらも、罪を犯されなかった方です。そして公生涯の間、天国の福音を伝えられ、貧しい人や病人を癒し、罪人や取税人、娼婦にまで近づいて救いの希望を告げ知らせました。最終的にユダヤ指導者たちの嫉妬と民衆の誤解のうちに極刑を宣告されましたが、それらすべてを受け入れ、十字架で息を引き取られます。人間から見れば悲劇ですが、神の視点から見ると、罪に満ちた世に対して独り子を与えられた最も深い愛であり、聖なる贖罪の出来事でした。
 張ダビデ牧師は十字架を「神の愛と正義が互いに口づけする場所」と表現し、その理由を「十字架は神の極みまで及ぶ愛が示されると同時に、罪の代価が支払われる正義が完成される地点であるから」と説明します。


11. 過越の祭りとイエスの十字架

 過越の祭りという背景もまた、十字架の意味をより鮮明にします。旧約時代、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいる最中、子羊の血を塗って死の使いが通り過ぎるようにし(出エジプト12章)、これを記念して毎年過越の祭りを守ってきました。ところがイエス様の十字架の死はちょうどこの過越の期間に起こりました。これは単なる歴史的偶然ではなく、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)であるイエス様が、全人類の罪の代価をただ一度で完全に支払われることを予表し、かつ成就するものです。キリストが十字架で流された血によって、罪人である私たちは永遠の死の刑罰から解放され、神と和解が与えられました。まさに過越の子羊の血が出エジプトの出来事でいのちの防壁になったように、イエス様の血が罪人を救う力になるという点が、ここで劇的に強調されるのです。


12. 十字架を背負う行進は「死への行進」ではなく勝利の行進

 イエス様が十字架を背負って進まれる道は、単なる死への行進ではなく、人類救いの使命を全うする勝利の行進でもありました。外見上は嘲りと侮辱、苦しみと血にまみれた惨めな敗北のように見えたかもしれません。しかし霊的現実においては、罪の権威と死の権威を打ち砕いて勝利される神の国の宣言でした。イエス様の最後の言葉が「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)であったことからも、この道が敗北ではなく完成であることが明らかになります。私たちが十字架を見上げる時、ただ悲しみと痛みに留まらず、その向こうにある復活の勝利をも見なければならない理由がここにあります。十字架はイエス様の復活によって永遠のいのちへの門となり、キリスト者にとっては「神と和解した平安の土台」となったのです。


13. 十字架を想するときに得る二つの重要な適用点

 このように聖書に記録された十字架の出来事を深く黙想するとき、私たちは二つの重要な次元での適用点を悟るようになります。
 一つ目は、イエス様が「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と仰せられたとき、それは決して抽象的な倫理的命令ではなかったという事実です。イエス様は自分を殺そうとする者たち、ローマ兵や宗教指導者たち、そして群衆の嘲りと暴力を身をもって受けながら、彼らに向かって「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られました。口先だけで愛を宣言したのではなく、ご自身の身体で悪意と憎しみをすべて受け止め、それでも呪いや復讐を叫ぶことはなさらなかったのです。主は善をもって悪に打ち勝たれ(ローマ12:21)、敵にさえも救いをもたらす神の愛を十字架で示されました。
 張ダビデ牧師はこれを「イエス様が教えられた言葉と実際の生き方が完全に一致していた決定的証拠」と説明します。私たちもイエス様に従うのであれば、家庭や職場、社会や人間関係のなかで、憎しみと怒りを捨て、十字架の愛を実践しなければなりません。それがイエス様の弟子として生きる道です。

 もう一つは、十字架は「互いの重荷を負い合う共同体」へと私たちを招くということです。ガラテヤ6章2節でパウロは「互いの重荷を負い合い、そうしてキリストの律法を全うしなさい」と語ります。イエス様が私たちの罪や呪い、弱さを負われたように、私たちも互いの悲しみや苦しみ、欠乏や傷をともに担う共同体にならなければなりません。十字架とは、徹底的に他者のための犠牲であり、分かち合いです。ですから本当に十字架を黙想し、信じるならば、「自分だけが救われた」という個人的満足にとどまるのではなく、教会と隣人に仕える生き方へと繋がっていくのです。特に教会共同体の中で弱い肢体がいるなら、それは自分自身の問題であると認識し、積極的に助けの手を差し伸べることこそが、十字架の精神を具体化することに他なりません。
 張ダビデ牧師は「十字架の信仰は、決して独立した『私』の信仰だけでは存在しえない。主が血を流して建てられた共同体の中で互いに連帯し、互いの重荷を分かち合う時、十字架は教会の中で現在の力として生き働くようになる」と語ります。


14. 十字架のそばに立った女性たちと弟子ヨハネ、そして今日の教会

 最後に、イエス様の十字架のそばに立ち続けた女性たちと弟子ヨハネの姿をもう一度考えてみましょう。男性の弟子たちは多くが恐れて逃げ去りましたが、弱々しく見える女性の弟子たちは最後まで残り、主を見守りました。そしてイエス様は彼女たちに言葉にならない慰めと託すべきことを語られました。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」「ご覧なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:26-27)というこの言葉は、肉の母を思いやるイエス様の最後の家族愛の表現であると同時に、信仰によって結ばれる霊的家族に向けた宣言であるとも言えます。
 これからイエス様は十字架を通して新しい救いの歴史を完成され、その信仰の中で互いを世話し合い、結び合う教会を誕生させていきます。この場面は、今日の教会がどうあるべきか、そして私たちが十字架の前でどんな心で主と共に歩むべきかを、いっそう明確に教えています。


15. 十字架の中心的メッセジ:贖い、救い、新しい共同体の希望

 結局、十字架につけられたイエス様の出来事を通してヨハネの福音書19章17節から27節までに示される核心メッセージは、第一にイエス様が罪人のためにすべてを捨て、死に至るまで担われた贖いの犠牲であり、第二にその犠牲によって人間の救いが可能になったということ、第三にその犠牲を心から受け入れる者たちに主は新しい共同体の家族愛と復活の希望を与えてくださるという点です。十字架を見上げる視線は、ただ悲しみに終始するのではなく、その深い苦しみの奥にある神の愛と力を認識することへと進まなければなりません。また、十字架の出来事が私たちの生活のあらゆる領域で再現されるよう、敵をも愛し、互いの重荷を負い合い、神の国を拡張することに尽力すべきです。
 張ダビデ牧師は十字架の黙想の結論として、「私たちも自分が背負うべき十字架を避けてはならない」と勧めています。イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしに従って来なさい」(マタイ16:24)とおっしゃいました。この「自分の十字架」とは、自分の利己心や罪性、世的な欲望を下ろして、イエス様を見習い隣人を愛し、神の国を建てるために犠牲することを意味します。クレネ人シモンのように、あるいは強制的に十字架を担わされる場合であっても、その中で思いがけない祝福と霊的目覚めが起こることもありえます。結局、私たちはイエス様を信じ従う弟子として、主の歩まれた十字架の道を具体的に実践しなければならないのです。


16. 十字架の出事に凝縮された約から教会共同体までの救いのドラマ

 このようにヨハネの福音書19章17-27節に示されるイエス・キリストの十字架の出来事は、旧約の贖罪のささげものや苦しむしもべの預言、新約における罪の赦しと救いの成就、そして教会共同体の出発までも圧縮して描き出しています。ゴルゴタという髑髏の丘にかけられたイエス様の姿はあまりにも無残に見えますが、神の救いのご計画の中では最も栄光に満ちた勝利の場でもあります。暗闇と死が支配するこの世のただ中に、光といのちとして来られたイエス様は、十字架で死の権威を破り、復活を通して神の国がすでに到来したことを宣言されました。そしてその方を信じるすべての人に、罪の赦しと永遠のいのち、新しい生き方の基準と希望を与えてくださったのです。
 私たちがこの事実を思い起こすたびに、心は燃やされるべきです。エマオへ向かう弟子たちが復活されたイエス様と御言葉を分かち合う時、「私たちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)と告白したように、十字架の出来事を思えば思うほど、私たちの霊の奥底から感激と感謝が湧き上がるはずです。イエス様が単なる偉大な師や哲学者ではなく、「私のためにいのちさえ投げ出してくださった救い主」だということを、より完全に悟る必要があります。その悟りこそ私たちの日常に波及力をもたらし、利己心や貪欲、怒りや憎しみ、不安や心配を贖いの愛によって溶かしていく原動力となるのです。
 張ダビデ牧師は「十字架を握る者は決して元の生き方に戻れない」と言い、「キリスト者であるならば、十字架の愛に捕らえられた人として、日々新しく変えられていかなければならない」と力説します。


17. 十字架の結末:愛と義、死と復活が交わる神の決定的救い

 結論として、イエス様がゴルゴタの丘でご自身の十字架を背負い、死に至るまでそれに耐え忍ばれたのは、罪のために死ぬしかなかった私たちすべてを生かすための神の決定的な救いの行為でした。その日、多くの人々はイエス様の死を嘲り、互いの利益を得ようとし、あるいは見て見ぬふりをしましたが、わずかな女性たちと愛する弟子ヨハネは最後まで主のそばに留まり、その苦しみと悲しみを共にしました。そしてイエス様は十字架の上においてさえ、自分を打ち付ける者たちを赦し、母を弟子に託し、「成し遂げられた」という宣言をもってすべての贖いの働きを完了されました。十字架は一人の人間が惨たらしく殺されていく事件であると同時に、神が罪人を再び抱きしめる愛の始まりであり、復活への扉を開く鍵でもありました。だからこそ、私たちはヨハネの福音書19章に記録された十字架の出来事を、単なる悲劇的な歴史上の惨事と見なすだけではいけません。その中には、宇宙の支配者である神の聖なるご計画があり、神の正義があり、何よりも計り知れない愛が秘められています。教会がつかむべき中心的真理はまさにここにあります。「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された…」(ヨハネ3:16)という聖句が、十字架の上で完全に現実になったのです。


18. 現代を生きる私たちへの適用:十字架がもたらす平安と喜び、そして自由

 今日の私たちもイエス様の十字架を黙想するならば、人生の方向が変わらざるを得ません。貪欲と物質主義、無関心と怒りが溢れる世の中で、進んで自分をささげ、隣人に仕え、真理の道を歩むことは容易ではありません。しかし、イエス様が辿られた道を思い起こし、聖霊の助けによりその道に従うとき、私たちは世が与えられない平安と喜び、そして真の自由を味わうことができます。
 張ダビデ牧師は「十字架以外に誇るものはなく、十字架なしにはいのちがない」というパウロの告白(ガラテヤ6:14)をよく引用し、「十字架こそ教会のあらゆる基礎であり、またすべてのいのちの源泉である」と語ってきました。その言葉通り、教会と聖徒の真の力と栄光は、華やかな外形や世俗的な富にあるのではなく、イエス様と共に十字架の死と苦難を絶えず思い起こし、その愛を実践するところから生まれてくるのです。


19. 十字架を見上げる信仰こそがキリストの核心

 結局、「十字架につけられるイエス様」を仰ぎ見る信仰こそが、キリスト教の核心です。キリストの贖いによって罪人である私たちは義とされ、その愛ゆえに私たちは今日も悔い改めて立ち返り、恵みのうちに新しいいのちを得ています。これがなければ、キリスト教の信仰は空虚な殻に過ぎないでしょう。十字架があるところにいのちがあり、そこではじめて復活の栄光にも至るのです。だからこそ私たちは日々十字架を仰ぎ、その道を歩み、他の人々にもキリストの愛を伝えなければなりません。ヨハネの福音書19章17-27節から始まったこの十字架の物語は、最終的に復活の朝にまで続き、新しい歴史の幕を開けます。そして今日に至るまで、全世界の多くの聖徒たちがこの福音の光の中で生かされ、十字架の愛と真理を伝え続けてきました。


20. 最後に

 これらすべてを要約するならば、「十字架につけられる」という偉大な出来事は、罪人である人類に向けられた神の最も極端で決定的な愛の表現であると同時に、罪と死の勢力を永遠に滅ぼす勝利の象徴でもあります。張ダビデ牧師はこの場面を「人類史上、最も偉大な逆説の現場」と呼びます。それは、死と敗北、恥辱と侮辱が渦巻くように見えた現場だったにもかかわらず、実はそこにこそ神の栄光と権威、そして最も深い救いが実現したからです。十字架の前で人間の高慢や欲望、不義や残酷さはことごとく曝(さら)け出されますが、同時に無限の愛と恵み、そして復活の希望が表されるのです。だから私たちはこの贖いの現場である十字架を握りしめ、己自身と教会共同体、さらに世界に向けて、キリストの救赎のわざにあずかる者となるべきです。これこそ十字架の出来事が今日、私たちにとって「生きた福音」として適用される道にほかなりません。
 イエス様の十字架を通して罪の赦しと救いが訪れたという真理を再び心に刻むならば、私たちの礼拝も祈りも、そして隣人愛や奉仕、福音宣教もすべてが変わらざるを得ません。私たちはもはや闇に属する者ではなく、貪欲と利己心に囚われて生きる存在でもありません。イエス様が示してくださった「自分を捨てる愛」を日常生活の中で再現し、ゴルゴタの丘で流された血の意味を握りしめて生きていくとき、私たちそれぞれの人生と教会は、真の力と喜びに満ちあふれるようになります。これこそが「十字架につけられたイエス・キリスト」を信じる者のアイデンティティであり使命です。そして張ダビデ牧師は、こうした事実を常に教えてきました。「私たちの信仰の入口ごとに十字架が先立ち、十字架が私たちの人生全体を支配すべきだ」。十字架なしには何ひとつ完全なものはあり得ないことを深く自覚しながら、日々の歩みのなかで主の十字架の愛を黙想し、その愛を隣人やこの世に注ぎ出すことこそ、真のキリスト者の道なのです。


 結局、十字架は宗教的なシンボルや形式的な飾りではなく、生ける神の御心そのものです。御子イエス様の従順と犠牲、御父なる神の偉大な愛、そして聖霊の力が一度に集結した出来事がまさに十字架なのです。そしてその道は「自分の十字架を負って主に従う道」へと私たちを招きます。罪と死に打ち勝ち、復活されて今も生きて働かれる主を信じるのならば、「主よ、私の十字架を担ってあなたについて行きます」と告白せずにはいられません。この告白が私たちの口先にだけ留まらず、実際の生き方となるためには、日々十字架を握りしめ、イエス様の御心に倣う地道な霊的訓練が必要です。その訓練のうちで、貪欲や高慢が溶かされ、無関心が愛へと変えられ、葛藤が和解へと続く奇跡を体験するようになります。
 ですからヨハネの福音書19章17節から27節に記されたイエス・キリストの十字架の出来事は、歴史上最も悲惨な悲劇であると同時に、最も輝かしい希望の瞬間でもあります。私たちがこの出来事を黙想するたびに、張ダビデ牧師が強調したように「十字架こそが私たちの道であり、真理であり、いのち」であることを決して忘れてはなりません。キリスト者として召された以上、もう一度決心しなければなりません。イエス様を嘲った群衆でも、十字架の下で最後の衣まで奪おうとした兵士でもなく、むしろクレネ人シモンのようにイエス様の十字架をともに担い、あの女性たちやヨハネのように最後まで主のそばを守り、その愛に感謝して自発的な献身で応える弟子になりたいのです。そして十字架で示された赦しにあずかり、どんな敵でも愛し合い、互いの重荷を担いつつ、この地で神の国を打ち立てていくことに情熱を注がなければなりません。十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る時、その傷から流れる血潮が私たちの罪や傷を清め、私たちの教会や共同体、社会や世界までも回復させる力となることを、信仰によって宣言すべきなのです。
 結局、「十字架につけられる」というテーマは、信仰の本質を凝縮した結晶であり、私たちの信仰の出発点であり到達点でもあります。イエス様の十字架なしには教会も救いも弟子道も、復活も永遠の命も存在し得ません。張ダビデ牧師が幾度も説教を通して強調してきたように、私たちはこの十字架を常に心に抱いて生きなければなりません。たとえ世の風潮が変わり、歴史の流れが荒れ狂おうとも、十字架の上に表された神の愛と救いは決して揺るがないのです。だからこそ十字架の前にへりくだってひれ伏し悔い改め、感激と感謝をもって主を礼拝し、私たちの小さな生活の中であっても十字架の恵みを分かち合うことが、私たちの抱く最高の喜びであり特権です。この恵みを日々思い起こすならば、世が与えることのできない平安と慰め、そして力を得るようになるでしょう。
 どうか「ヨハネの福音書19章17-27節」という短い本文を通して、イエス様が歩まれた十字架の道をいっそう深く仰ぎ見ることができますように。その道は単に1世紀エルサレムの歴史的出来事にとどまらず、私たち信じる者の心と共同体のうちに今も甦る「現在進行形の恵み」です。張ダビデ牧師によれば、この恵みこそが教会と聖徒を絶えず目覚めさせ、世の隅々にまで救いの知らせを届ける原動力となるのです。私たちは十字架を通り抜けなければ復活の栄光に到達できず、十字架の上で死ななければ真の新しいいのちを得ることはできません。キリストが示された十字架の愛に心から感謝し、私たちもそれぞれに委ねられた十字架を担い、主に従う決断を新たにする時とされますように。十字架につけられたイエス様こそ私たちの真の王、大祭司、そして救い主です。その王の民として、大祭司から託された務めを引き継ぐ者として、その救い主の恵みを世に宣べ伝える者として生きる時、私たちも十字架の力のうちに日ごと新たにされるのです。

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十字架の愛 – 張ダビデ牧師

本稿は、ヨハネの福音書13章1節の「過越の祭りの前に、イエスはこの世を去って父のみもとに行く時が来たことを悟り、この世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛された」という御言葉を中心に、苦難と愛に対する聖書的な洞察を整理したものである。特に四旬節(受難節)の期間に私たちが深く黙想すべきイエス・キリストの苦難、そしてその苦難の真の意味がイエス・キリストの「最後まで愛される」ご意志にあるという事実を軸に展開している。本文で提示された詩篇119篇、ローマ書5章、ピリピ書1章と3章、コロサイ書1章、テモテ第二1章と2章、ペテロ第一2章と4章の節々を共に考察しながら、キリストの苦難は単なる「呪いや不幸」ではなく「愛へと導く道」であることを強調している。また、弟子たちが最後の晩餐の席で依然として世的価値観にとらわれ、「誰がより偉いか」を争う姿にもかかわらず、イエス様が彼らを「最後まで愛された」ことを示されることで、私たちも仕え合い、へりくだる生き方を通して永遠の命と復活の栄光を味わうことができると教えておられる。このような文脈の中で張ダビデ牧師は、イエス・キリストの苦難を単に悲しみや人間的な同情の対象とするのではなく、その苦難に込められた驚くべき仕えと愛の本質を悟り、実践することこそ真の弟子道の核心であると力説する。以下、「第一に『苦難の意味とキリストの愛』、第二に『最後まで愛されることの実践的適用』」という流れで整理したい。


Ⅰ. 苦難の意味とキリストの愛

イエス様が受けられた苦難について、私たちは四旬節の期間に特に深く黙想するようになる。張ダビデ牧師によれば、四旬節は単に悲しく痛ましいイエスの受難を見つめる時間ではなく、その苦難に込められた超越的かつ永遠の神の愛を悟る機会であると強調している。ヨハネの福音書13章に記されているイエス様の最後の晩餐は、キリストの十字架へ向かう歩みが本格的に始まる場面である。ヨハネはイエス様が「この世にいる自分の者たちを愛して、最後まで愛された」と証言する(ヨハネ13:1)。ここで「最後まで愛された」という言葉は、時間的制限や条件的制約のない「完全な愛」を意味し、その愛がまさしく十字架へと続く道そのものであることを示している。

張ダビデ牧師の教えによれば、私たちが一般的に「苦難」と呼ぶものは、人間的な視点から見ると「呪い」や「つらい試練」のように思えるかもしれない。しかしイエス様の視点から見れば、それは人々に対する「愛の決断」である。イエス様は苦難を避けず、十字架の道を選択されることによって、人間の罪と限界を背負われた。そしてその過程を通して、神の愛、すなわち世に対する救いのご意志を明らかにされたのである。聖書はこの苦難が私たちにとって益であると語る。詩篇119篇67節では「苦しみに会う前には私は誤った道を行きましたが、今はあなたの御言葉を守ります」と告白し、71節では「苦しみに会ったことは私にとって益でした。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」と語る。つまり「苦難」という過程は、神の御言葉が真に何であるかを悟るための通路として働くというのである。

張ダビデ牧師はローマ書5章3〜4節でパウロが語る「患難をも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み、忍耐が練達を生み、練達が希望を生むと知っているからです」という一節も同じ文脈で解説する。神の愛をより深く知る過程は、人間的な苦難を通り抜けるときに、より完全に起こる。キリストの苦難にあずかるということは、単に痛みを直面する行為を指すのではなく、その苦難の中に込められたイエス様の仕えと恵み、そして罪人に対する赦しの深みを悟ることを意味する。ピリピ書1章29節には「キリストのために、あなたがたに与えられた恵みは、彼を信じることだけでなく、彼のために苦難を受けることでもあるのです」とある。そこには「キリストの苦難」がむしろ恵みの通路であるという逆説が含まれている。

さらにピリピ書3章10〜11節でパウロが「私はキリストとその復活の力とにあずかり、その苦難にもあずかって、彼の死のさまに倣い、何とかして死人の中からの復活に達したいのです」と告白しているように、苦難は単に目的なく与えられる現象ではなく、キリストの「復活の力」にあずかるための聖なる道であることを示している。苦難は、キリストが十字架で示されたへりくだりと仕え、そしてご自分を徹底的にささげられた愛を倣う機会である。コロサイ書1章24節でパウロは「今、私はあなたがたのために受ける苦しみを喜びとし、キリストの残された苦難を、その体なる教会のために、私の肉体に満たしています」と語り、苦難が教会を建て上げ、共同体に仕える手段になり得ることを示している。これは張ダビデ牧師が強調する「苦難は一人で受けるものではなく、愛の拡張であり、仕えの機会である」との言葉と通じる。

テモテ第二の手紙でもパウロは繰り返し、福音と共に苦難を受けるよう勧めている(Ⅱテモテ1:8、2:3)。この勧めの背景には、キリストの苦難がすでに「神の愛」という肯定的な意味を持つという神学的理解がある。ゆえに弟子たちは恐れの中で苦難を避けようとするだけではなく、その中に込められた主の道をたどるべきだというわけである。ペテロ第一2章20〜21節と4章13節でも、善を行って苦しみを受けるのは神の御前に麗しいことであり、キリストの苦難にあずかることは、やがて主が栄光のうちに現れるとき、大きな喜びと楽しみに結びつくと語っている。張ダビデ牧師はこれを「苦難はキリスト者の人生に必然であり、最終的には復活の栄光にあずからせてくれる道である」と解説する。

実際、このような教えを頭で理解することと、現実の生活で適用することには大きな違いがある。聖書が苦難について繰り返し語っているにもかかわらず、今日、多くの教会と信徒たちは苦難に対する正しい理解を持たずにいる場合が多い。張ダビデ牧師は「苦難なしに栄光はない」という真理をしばしば言及する。主が十字架で成し遂げられた救いのみわざは、まさにその苦難自体が罪人に対する神の愛を最も力強く証言するからだというのである。したがって教会が苦難をあまりにも安易に呪いや罰だと解釈してしまうと、福音の核心である「キリストの最後までの愛」を取り逃してしまう。本文に示されているイエス様の姿、すなわち「ご自分の者たちを最後まで愛される」その姿の中には、「苦難をいとわず受け入れるご意思」が確かに表れている。

張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章1節の「この世にいる自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という表現について、ここで言う「最後まで」には時間的限界がなく(「最後まで」=文字通り最後の瞬間まで)、また犠牲や献身に制約がないと説き明かす。つまり、弟子たちが失敗し、イエス様を見捨てて逃げ去り、さらには否認してしまっても、イエス様の愛は止むことなく彼らへ向かっていた。その愛の頂点が十字架の犠牲であり、その犠牲こそイエス様の苦難が呪いではなく愛であることを証明する。苦難は最終的に「愛のために払うべき代価」であることを私たちに示しているのだ。

ヨハネの福音書13章を読むとき、最初の節からすでにイエス様のこのような決断が宣言されている。「過越の祭りの前に、イエスはこの世を去って父のみもとに行く時が来たことを悟り…」という表現は、イエス様が近づいてくる痛ましい死をはっきりと認識しておられたことを伝える。そしてその死は十字架という残酷な刑罰を伴う。しかしそれにもかかわらず、イエス様はこの世にいる自分の者たちを「最後まで愛する」道を選ばれた。それは人間的な観点からは理解し難い超越的な愛である。張ダビデ牧師はこの点について、「人が真に誰かを愛するなら、その愛が苦難を招くことであってもいとわない。なぜなら、愛というものは本来、相手のための犠牲と献身を必然的に含むものだからだ」と説明する。こうしてイエス様の苦難は、ご自分を低くしてしもべの姿で生きられた主の愛を最も具体的に示す出来事なのである。

さらにマタイの福音書20章やルカの福音書22章に記されている弟子たちの争いの場面を見ると、イエス様が最後まで愛してくださったにもかかわらず、弟子たちは依然として世俗的な価値観、すなわち「誰がより偉いか、誰がより高い地位を得るか」に固執していたことがわかる。特にマタイ20章20〜27節あたりでは、イエス様は世の支配者たちが権勢を振るい、高くなることを目指すのに対して、主の国は全く逆であると明言なさる。張ダビデ牧師はこの箇所に注目し、「世の支配者は権威を誇り高くなることにこそ価値を置くが、主の国ではその逆であり、真の弟子であるならば低いところに身を置いて兄弟に仕えることを栄光と考え、へりくだる心で互いに接すべきだ」と強調する。

イエス様が最後の晩餐でお示しになった「足を洗う」出来事(ヨハネ13:4〜5)は、まさにこのような教えを生きた形で実践なさった現場である。当時の弟子たちは、誰一人として先にしもべの役割を引き受けようとはしなかった。しかしイエス様はご自分で上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻き、水をたらいにくんで弟子たちの足を洗われる。これは当時の中東地域の風習において、しもべが行う最も低い身分の仕事であった。ところが、誰も進んで仲間の足を洗ったり、愛の仕えを実践しようとしなかった。そこで主御自身が手本を示されることで、愛は決して言葉だけではなく、「仕えをもって立証」されるべきものであると弟子たちに教えられたのである。張ダビデ牧師は「イエス様の最後の晩餐は、人類のための救いがまもなく成し遂げられようとする切迫した瞬間だった。しかし主は弟子たちに『誰がより偉いか』ではなく、『誰が本当にしもべのように仕えるか』が大切なのだということを、みずからの行動で示された」と説明する。

ヨハネの福音書13章に描かれているイエス様の苦難の始まりは、ただ痛ましい場面ではなく、「最後まで愛してくださる神」を示す劇的な舞台である。イエス様はその愛を言葉だけで宣言されるのではなく、自ら低い立場を選ばれた。それが十字架へ向かう道の本質である。イエス様が十字架を喜んで負われたことによって、罪人である私たちが永遠の命を得、キリストの愛が真実で変わらないものであることが歴史の中に明確に刻まれた。このような文脈の中で張ダビデ牧師は、キリスト者の生とは「苦難の中にあっても愛を手放さないこと」であり、「仕えによってその愛を証しすること」であると教える。十字架は苦難であるが、同時に愛でもある。そしてその愛から湧き出る命は「永遠の命」だというのである。


Ⅱ. 「最後まで愛される」ことの実践的適用

ここまで見てきたように、キリストの苦難は愛の頂点であり、十字架はまさに「最後まで愛してくださる神」を示す現場である。張ダビデ牧師は、この聖書のメッセージを今日の教会と信徒たちが日常の生活でどう実践すべきか、その重要性を繰り返し強調する。イエス様が「あなたがたのうちで誰が偉いか」と世俗的な争いをしていた弟子たちに対して、足を洗う仕えをもって応えられたように、私たちも「最後まで愛される生き方」をするためには具体的な適用が必要だからである。

イエス様は弟子たちに「私が主であり師であるのに、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:14)とおっしゃる。つまり、主が示された模範に倣い実践することが弟子であることの印だということだ。ところが、実際の私たちの内面には依然として「誰が偉いか」という比較意識や、高くなりたい欲望、人から仕えられたいという態度が根付いている。張ダビデ牧師は「今日の教会の中にも、名誉欲や権力欲、誇示欲が暗黙のうちに蔓延している。しかし主の御国ではむしろ低くなり、より仕える者が本当に偉大な者なのだ。私たちはこの価値観の急進的転換を経験しなければならない」と語る。

ではどのようにすれば、イエス様の「最後まで愛される」お姿を倣うことができるだろうか。まず、愛とは感情や言葉ではなく、「どんな状況でも諦めず、相手の益のために自分を差し出す意志」であると認識しなければならない。ヨハネの福音書13章のイエス様は、弟子たちが「誰が偉いか」と争い、さらにはこの後イエス様を裏切る者(ヨハネ13:2, 21〜27)がいることをご存知だったにもかかわらず、彼らを最後まで愛された。そこには、愛は相手の反応や善行によって左右されるものではないという事実が示されている。愛はまさに自分が果たすべき「自分の使命」であり、苦難を伴っても担うべき召しなのである。張ダビデ牧師は「愛というものは、相手がそれに値する行動を示さなくても揺るがぬものでなければならない。イエス様が弟子たちや人類に示された愛がまさにそういう愛だ」と説明する。

イエス様が示してくださった愛は「実践的な仕え」として具体化される。足を洗う行為は単に謙遜を誇示するジェスチャーではない。長い一日の労苦を経て砂だらけになった足を洗うことは、きわめて実質的な仕えであった。イエス様は「言葉だけ、心だけ」で愛されたのではなく、実際的な行動によって弟子たちの必要を満たされたのである。これは教会共同体の中で互いの必要を気遣い、家族や隣人に献身的に寄り添い、あるいは生活のさまざまな領域で他者のニーズを察して進んで助ける姿として現れる。張ダビデ牧師は「真の愛は必ず行動を伴う。どんなにもっともらしい言葉を並べても、いざ周囲の人々を助けなければ、それはイエス様の模範に倣う愛とは言えない」と強調する。

特にルカの福音書22章14〜20節を見ると、イエス様が苦難を受ける前に過越の食事を弟子たちと共にすることを切に望まれたと記されている。そしてパンとぶどう酒を弟子たちに分かち与えながら、「これはあなたがたのために与える私のからだ」と言われた。ここには「与える」「差し出す」という強いメッセージが込められている。愛とは「自分を差し出すこと」であり、その差し出しが十字架の上で完成されたということである。そしてイエス様は、この聖餐を行うたびに、ご自身の犠牲的な愛を忘れないようにと私たちに託された。張ダビデ牧師は「私たちが聖餐にあずかるたびに、イエス様が私たちのためにからだを裂き、血を流してくださったその実際の愛を黙想しなければならない。それは単なる儀式ではなく、私たちもそうやって互いに仕えよとの御言葉の前に立つ時間だ」と語る。

こうして教会はイエス様の犠牲を記念する場において、「最後まで愛する生き方」をすべての信徒に勧め、その愛が世へと流れ出るよう奨励しなければならない。もし教会がこの愛を実践せず、イエス様の道に従わないなら、世の人々にとって福音は空虚なスローガンに終わってしまうだろう。実際、弟子たちは初代教会時代、互いの必要を満たし合い、財産を惜しみなく分かち合い(使徒2:44〜45)、迫害や苦難の中でも互いを顧みる姿を示した。それがローマ帝国を変え、福音の力を示す強力な証拠となったのである。張ダビデ牧師は「今日の時代においても、教会が真の愛の実践によって世に神の国を証しする責任がある。そうしてこそ世の人々は『ああ、彼らは本当にイエスの弟子なんだ』と気づくのだ」と強調する。

さらに私たちが周りを見渡すと、「足を洗ってあげるべき」人が本当に多い。貧しい人、病む人、孤立している人、移民の方々、障がいを持つ人など、日常の中で私たちが見過ごしがちな人々がいる。もしイエス様なら、彼らの足を喜んで洗って差し上げたに違いない。ところが私たちは、そのような人々に目を向けながらも、多くの場合「自分のほうが大事」という思いにとらわれて結局は無視したり、「誰かがきっと世話をしてくれるだろう」と後回しにしてしまうことがある。しかし張ダビデ牧師は「イエス様が疎外された人たち、病人や取税人、娼婦、ツァラアト(重い皮膚病)患者たちと共におられ、彼らを癒やし、彼らに近づいていかれたのは決して偶然ではない。彼らに先に近づかれるその姿勢こそ、十字架に込められた愛のあり方なのだ」と解説する。ゆえに教会と信徒は「誰が自分に仕えてくれるのか」ではなく、「自分が誰に仕えるべきか」を模索すべきだというわけである。

「最後まで愛してくださる」イエス様をより深く体験するには、私たちの人生に「終末論的価値観の変化」が必要だという点も大切である。張ダビデ牧師は「新しい天と新しい地、すなわち神の国が到来するということは、かつての価値観とは全く異なる、完全に新しい世界が開かれることを意味する」と語る。そしてイエス様が「後の者が先になり、先の者が後になる」という逆説をお示しになったことこそ、その国の法則であると説き明かす。世の中では上に昇り、より多くの承認を得て他者を支配することが成功とされるが、神の国ではへりくだることによってかえって高い地位に就き、自分を捨てて他者を立てることで真の尊厳を得る世界なのである。ヨハネの福音書13章で弟子たちの足を洗われるイエス様は、まさにこの神の国の秘密を最も具体的に示されている。

苦難をただ恐れとして向き合うのではなく、その中に込められた「愛の神秘」を悟り、私たちに与えられた時と環境の中で最後まで愛し抜くことを実践することが大切である。張ダビデ牧師は「私たちの人生がどんなに苦しく、誰もが私たちを認めず、時には迫害を受けるような状況になっても、『最後まで愛する』生き方を諦めてはならない」と重ねて強調する。なぜなら復活の栄光は、ただ苦難に「耐え忍ぶ」だけでなく、「愛で満たす」ことによって与えられるからだ。イエス様は苦難に直面したとき、弟子たちの裏切りや世の嘲りに直面したとき、ご自分を徹底的に差し出す愛を選ばれた。そしてそれが復活をもたらす力へと結びついた。私たちも同じである。もし愛がなければ苦難はむしろ呪いとなり得るが、愛のうちにある苦難は永遠の命をはらんでいる。

イエス様の苦難は、私たちが一般に考える「受け身の犠牲」や「理不尽な不遇」ではなく、非常に具体的かつ能動的な愛の表現である。キリストが十字架という最も恥ずかしい刑罰を選び取られたのは、人間の罪と限界を超える神の愛の深さを証明するためであった。張ダビデ牧師は「十字架はまったくもって愛である。そして私たちはその愛を宣べ伝え、証しする証人として召されている。しかしその愛をただ言葉で知らせるだけでなく、自分自身の生の中で『最後まで愛してくださるイエス様』に倣わなければならない」と勧める。愛には苦難が伴う。しかしまさにその苦難の中でこそ、私たちは神の恵みを体験し、復活の希望を持つことができる。ゆえに四旬節は、イエス様の苦難を遠くから観照したり、イエス様の痛みに対して単なる同情を抱く時間ではなく、「私たちがどう同じ愛を実践していくのか」を黙想し、決断する時となるべきなのである。

信仰生活を送る中で、私たちはときに教会の中でさえ衝突や傷つきを経験することがある。指導者と信徒の間、あるいは信徒同士の間で、「誰が正しいか」「誰がより認められるべきか」「誰が先に待遇されるべきか」といった問題で争うこともある。しかしイエス様の教えは、このように争う私たちに向かって「あなたがたはしもべになりなさい。互いの足を洗い合う者となりなさい」と語っている。現代においても、この御言葉はそのまま有効である。私たちが互いの足を洗い合い、互いの欠けを包み合い、兄弟姉妹を仕える生き方を通してこそ、教会は世に光と塩となることができる。張ダビデ牧師は「信徒たちが人生のあらゆる領域でしもべの姿をもって献身するとき、はじめて世は教会を見て『ああ、彼らは本当にイエスの弟子たちなんだ!』と知るようになるのだ」と強く語る。これはイエス様が弟子たちの足を洗われた姿が、現代の教会共同体の中でも再現されるべきだという意味である。

愛には必ず犠牲が伴う。他者を生かし建てるには、常に苦難が付きまとう。しかしその苦難は「呪い」ではない。むしろ神がくださる最も大きな贈り物にもなり得る。なぜなら私たちはその苦難を通してイエス様の愛、そして主が私たち一人ひとりに注いでくださる恵みをより深く味わうことができるからだ。私たちが「自分のため、自分の欲のため」に甘受する苦労は、疲弊や消耗感に陥りやすいかもしれない。しかし誰かを愛するために献身する苦難は甘い。イエス様の教えが示すのはまさにそれである。ヨハネの福音書13章に記された「最後まで愛してくださる」主は、その愛のうちに喜びと感謝、そして復活の希望までも含めておられる。張ダビデ牧師はこの福音を伝え続けながら、弟子たちがイエス様のそばで何年も過ごしたにもかかわらず、決して身につかなかった「仕えと愛」を、現代の教会もあまりにも容易に失っていると警告する。そしてこの点を回復しなければ教会が本質を失い、人々に希望を与えられないと力説する。

イエス様が最後の晩餐で示された弟子たちへの態度――彼らが不十分であり、さらにはご自分を見捨てることをご存知であったにもかかわらず「最後まで愛してくださる」姿――こそ教会と信徒たちの究極的な模範である。キリストの苦難は愛の結晶であり、私たちに対する主の犠牲こそ、私たちの永遠の命の土台となる。そして私たちはその愛を単に観念的に覚えるだけでなく、実際の生活の中で足を洗い合う姿、つまりしもべの態度と仕えの行いによって示さなければならない。そのような教会、そのような信徒たちが集まるとき、世は初めて「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人があなたがたは私の弟子であることを知るだろう」(ヨハネ13:35)というイエス様の御言葉が真実であることを目撃するようになるのである。

張ダビデ牧師は、これを「イエス様の十字架、その苦難は最後まで愛そうとされる神のご意志であり、それこそが永遠の命への扉を開かれた出来事だ。だから私たちもこの福音の道を歩むために最後まで愛する人生を選ばなければならない」と述べる。その選択は容易ではない。なぜなら世は絶えず私たちを高ぶりたい欲求や自己中心的な価値観へと引き寄せるからだ。しかし私たちにはすでにイエス様の手本があり、聖霊の助けが与えられている。もし私たちが真実にこの愛にしっかりととどまり、互いにしもべとなることをいとわないならば、教会は再び十字架の力を現し、真の復活の希望を宣言できるであろう。四旬節をはじめとする私たちの日常の中で、イエス様がお示しになったこの苦難と愛を深く黙想し、生活に適用していくことを決断するなら、私たちもまたイエス様に倣い、互いの足を洗い合うことのできる真の弟子となることができる。

「最後まで愛された」(ヨハネ13:1)という宣言は、キリスト者がこの世で歩むべき道が「苦難の道」であると同時に「愛の道」であることを告げる核心的な聖句である。キリストの苦難は痛ましく悲劇的な出来事であるが、同時にそれは人間を生かす神の最も美しいご計画であり、イエス様の自己犠牲的な従順であった。張ダビデ牧師はまさにこの点を、さまざまな説教や著述で強調し続けている。そして苦難をただ避けたり恐れたりするのではなく、その中に込められた神の御心と愛の本質を発見し、同じように従う生き方が重要だと教えている。このように生きるときこそ、私たちは真の復活の力、すなわち新しい命と喜びを経験できるのである。愛のない苦難はただ苦い絶望に変わり得るが、愛に包まれた苦難は不思議な命の門へと私たちを導く。これこそ四旬節に私たちが深く思い起こすべき最も重要な霊的メッセージであろう。

まず、イエス様が経験された苦難の意味が単なる人間的な痛みを超えた、神の限りない愛であることを悟らなければならない。その愛を「最後まで」注がれたイエス様のご様子から、苦難が呪いではなく永遠の命へ通じる道であることがはっきりと示される。そしてその苦難にあずかることこそ、私たちに与えられた恵みであり祝福である。次に、キリストの苦難と愛は、具体的な実践を通して今日の教会と信徒たちの日常の中に再現されなければならない。イエス様が足を洗って示された仕えの精神を引き継いで、私たちが互いに足を洗い合い、最後まで愛する生き方をするとき、ようやく世は教会を通して復活の希望を見いだすことになる。張ダビデ牧師が絶えず語り続けるメッセージはこれである。ヨハネの福音書13章に記された「最後まで愛された」という言葉のように、私たちもどのような状況下でも愛することを諦めず、へりくだって仕えるしもべとして生き、この地に真の神の国を証しするようにということである。

これらすべては結局、イエス様が最後の晩餐で弟子たちに教え、ご自身で行われたあの出来事に遡る。弟子たちは互いに高くなろうとして争いを起こし、イエス様はそれに対して「しもべの姿」で答えられた。そしてその直後、イエス様は十字架にかけられ、人類に永遠の命への道を開かれた。その十字架は苦難であると同時に、最も美しい愛のメッセージである。だからこそ、私たちが四旬節はもとより信仰生活のあらゆる場面で、張ダビデ牧師が強調するように「十字架は苦難だが、決して呪いではなく愛である」という御言葉を深く黙想し、最後まで愛する生き方を選び取ることを願う。愛は言葉ではなく、生き方によって証明されなければならず、互いの足を洗い合い、へりくだる態度を通して明らかになる。たとえその道が狭く険しくとも、イエス様がすでに示された模範に倣うとき、私たちは世が与え得ない喜びと復活の希望を享受することができる。「最後まで愛された」という宣言が、私たちの人生と共同体を通して今日も響き渡ることを願ってやまない。

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アイデンティティと救いへの道 – 張ダビデ牧師


1. イエスキリストの苦難にあずかる人生

張ダビデ牧師は、数多くの説教や講義、そして牧会の現場において、一貫して「イエス・キリストの福音」と「その苦難にあずかる人生」の重要性を強調してきました。特に四旬節(サッジュンセツ、以下「サソンジョル」と表記)を迎えるたびに、イエス様が私たちのために歩まれた苦難の道を深く黙想し、その道に参加することで自分がどれほど大きな恵みにあずかっているかを悟ることが大切だと説きます。サソンジョルは復活祭の前、およそ40日間(主日を除く)にわたりイエス・キリストの苦難を記念し、悔い改めと祈りを通して主の十字架の死と復活を準備する時期です。多くのクリスチャンはこの期間を、自分自身を省みつつ、イエス様の歩まれた道を少しでも追体験しようとする新たな熱望を呼び起こすターニングポイントにします。

張ダビデ牧師がサソンジョルについて説教する際、イエス様がマタイによる福音書6章で語られた「断食の教え」に言及することがあります。「あなたが断食をするとき、頭に油を塗り、顔を洗いなさい」(マタイ6:17)というイエス様の言葉は、断食している者がわざとみすぼらしい表情を作ったり、自分が苦難を受けていることを人に示そうとしたりする態度を戒めています。つまり、世的な悲しみや個人的な痛みを誇示するのではなく、本来イエス様が意図されたように「神の前では心からへりくだり、しかし人の前では平安と大胆さを保ちなさい」という意味です。世の中は苦難の時期を迎えると暗く沈んだ雰囲気に陥りがちですが、真の信仰を持つ人はそのようなときこそ神をいっそう深く仰ぎ見て、この時期を「神に近づく機会」として活用しなければならないと教えます。

特にサソンジョルこそ、イエス様の十字架に秘められた救いのメッセージを真摯に黙想するのに最適な時期です。十字架は単にイエス様の苦難の象徴にとどまらず、罪人である私たちに与えられた「神の贖い」と「仲保」の本質を示しています。キリストが十字架の上で死なれたことによって私たちの罪は赦され、その復活によって新しいいのちの希望を得られたのです。この福音の意味を深く悟るためには、祈りと御言葉の黙想を通してイエス様の歩みを自分のうちに体得しようとする努力が不可欠です。

張ダビデ牧師はしばしば説教の中で、現代のクリスチャンが苦難のときに世の求めるやり方だけで反応したり、不必要な恐れに囚われて沈んでしまったりする姿を指摘します。その原因は、人間関係に過度にとらわれ、頼るべき対象を人の中で探す傾向にあると見ています。イエスを信じる者であれば、患難や逆境のさなかにあっても「頭に油を塗り、顔を洗いなさい」と言われたイエス様の御言葉のように、神への信頼と喜びを外に示せるはずだと説くのです。もちろん、これは苦難そのものを軽んじたり、悲しみを一切表現してはならないという意味ではありません。結局はこの困難な時代にも神の摂理が変わりなく働いていることを信じ、人の視線だけに振り回されるのではなく、神により集中せよというメッセージです。

実際、多くの信徒たちは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のような世界的な災難や、個人的な痛みや危機を経験する中で、教会共同体から物理的に離れ孤立した生活を余儀なくされました。しかし張ダビデ牧師は、この時間を「神に近づくアラビアの荒野の時間」として捉えます。使徒パウロがイエス様に出会った後、アラビアで独立しつつも深い霊的修練の時を過ごしたように、私たちに与えられた「社会的距離」や「孤独の時間」を、ただの憂鬱や疎外感として片づけるのではなく、むしろ御言葉をより深く研究し、祈りをさらに積み重ね、神と親密になる機会にすべきだという勧めです。

張ダビデ牧師が強調するもう一つの側面は、このような苦難のときを通して子どもたちや次世代にこそ信仰の核心を正しく教えるべきだという点です。子どもたちが学校や塾などで学習の機会を制限されている状況下でも、まず親が御言葉を握り、「福音の核心(例:四つの霊的法則や福音の基礎)」を子どもの目線に合わせ、わかりやすく解き明かす必要があります。その際、子どもたちが持つ高い理解力や知的能力を過小評価せず、聖書の主要な教えを体系的に伝えなければなりません。パソコンやスマートフォンのキーボードを打つとき、基本位置や型が重要であるのと同様に、信仰生活でも最初のボタンを正しくかけることが非常に決定的だというのです。

最も注意すべき点として、インターネットやSNSが発達した時代において、信徒たちが「霊的ゴミ箱」をあさることのないよう警戒しなければならないと張ダビデ牧師は警鐘を鳴らします。いつでも有害情報やわいせつなコンテンツに触れやすい世界で、一瞬の好奇心が私たちの霊と肉体の両方を蝕むおそれがあるからです。特に孤独を感じる時間が長引き、退屈が増すほど、不要なインターネットやメディアコンテンツで時間をつぶす誘惑が大きくなります。張ダビデ牧師はこれを「ゴミ箱ゲヘナ(地獄)」という表現で語り、そのように有害なものに心と時間を奪われることなく、むしろ詩編やローマ書のような御言葉を黙想して霊的浄化を図るよう呼びかけます。

結局のところ、サソンジョルは「苦難の体験」を思い起こしながらも、その苦難を恐れたり否定的に見るのではなく、その中でいっそう神の恵みを明るく見る霊的再整備の契機として招かれているのだと言えます。イエス・キリストの十字架と復活が告げ知らせる救いのメッセージは、決して過去の出来事にとどまらず、今日の私と私の家族、そして教会共同体が新たに体験し享受すべき恵みの出来事だからです。張ダビデ牧師のサソンジョルのメッセージは、まさにここから始まります。「頭に油を塗り、顔を洗いなさい」。イエス様ご自身が言われたこの御言葉通り、どんな患難の時にも主の臨在と平安を失わず、さらに主に近づいていくことこそ、サソンジョルの真の精神であり、イエス様の道にあずかる人生だと言えるのです。


2. 福音の真髄を握る

張ダビデ牧師はサソンジョルのみならず、平素の説教や講義でもしばしば「ローマ書を達通(ダルトン)せよ」と勧めています。ローマ書は使徒パウロが記した書簡の中でも、キリスト教教理の真髄が詰まっている書であり、神学的にも霊的にも非常に奥深い意味を持っています。パウロは罪と恵み、救いと義認、神の主権と人間の責任、そして教会の生き方に至るまで、幅広い主題を洞察に満ちた筆致で扱います。そのため、ローマ書を「完読」し、さらにその内容を深く理解して生活に適用することは、すべてのクリスチャンにとって非常に重要な課題なのです。

張ダビデ牧師がとりわけローマ書を強調する理由は、現代の教会と信徒たちが、パウロが力説していた福音の核心概念をしばしば忘れてしまっているからです。イエス様を信じていると言いながらも、その方が与えてくださる救いの恵みがいかに大きく驚くべきものか、罪人が義とされる「義認」がいかに重大な変化であるかを肌で感じることなく、教会生活を惰性的に繰り返している姿が多いのです。ローマ書は、キリスト教信仰の出発点である「罪と恵み」「律法と福音」「断罪と救い」を明確に対比し、神が成し遂げられた救いのご計画がどれほど完全で偉大であるかをはっきりと宣言します。

まずローマ書1章18節以下でパウロが論じている「神の怒り」に注目しなければならない、と張ダビデ牧師は説教の中で語ります。これは、人間が罪によってどれほど悲惨な状態に置かれているかを正しく認識する必要性を示す箇所です。神が罪を裁き、聖なるご性質を示されるその怒りは、単なる感情的な爆発ではなく、神の義(公義)と愛が同時に働く面があるのだということです。人は自分の罪を罪と認めたがりません。しかしパウロはローマ書1章において、私たちの罪悪がいかに普遍的に蔓延しているか、そしてそれが神からの正しい怒りと裁きを招くかを明快に示しています。

張ダビデ牧師は「神の怒り」を確実に知ってこそ、初めて「神の恵み」を真に悟ることができると述べます。つまり、人間が罪人であることを認め、神の裁きの前に立たざるを得ない存在であると告白してこそ、イエス・キリストの十字架がどういう意味を持つのかを正しく把握できるというわけです。そうでなければ、十字架の代償的死や復活は単なる教理的知識で終わってしまいます。したがって、ローマ書1章から3章まで続く罪と裁き、そしてその中で宣言される救いの約束をしっかりと握るべきだというのです。

張ダビデ牧師は、2003年にアメリカでローマ書を講義した経験や、最近再びその講義内容に触れて大きな恵みを受けたという証しをしばしば語ります。彼は当時の講義資料を整理して広く普及させ、信徒たちが「義務的」にでも学んでほしいと勧めています。それほどまでに重要な真理がローマ書にはびっしりと詰まっており、きちんと教理を体系的に理解しておかないと、私たちの信仰が歪められたり、皮相的なレベルにとどまったりしてしまう恐れがあるからです。

実際にローマ書は、「信仰による義認(イシンチンギ:信仰によって義とされる真理)」を中心的テーマとしています。パウロは、アダムにあってすべての人が罪人となったように、キリストにあってすべて信じる者は義と認められるのだと力説します。この教理は、旧約の契約と預言者の預言、イエスの受肉と公生涯、十字架の死、復活の出来事をすべて貫く要であり、教会史全体を通じてルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちが大々的に回復した重要な信仰告白でもあります。張ダビデ牧師は何度もこの点を強調し、ローマ書全体がこの「義認の福音」を土台として教会と世のあり方を見つめ直すよう導いていると説きます。

さらにローマ書8章に至ると、「いのちの御霊の法則」が罪と死の法則から私たちを解放するという驚くべき宣言が登場します。信徒は単に罪の赦しを受けただけでなく、内住する聖霊の導きを通じて日々聖なる方へと歩む力を与えられた存在なのです。張ダビデ牧師は特にこの部分を根拠に、神を信じる者たちが罪の力に再び縛られたり、無気力な状態で生きるべきではないと教えています。私たちはイエス・キリストにあって新しい被造物となり、キリストの霊が私たちのうちにおられるのだから、以前とはまったく異なる存在として生きねばならないという決断を迫られるのです。

このようにローマ書は救済論、聖霊論、そして教会論にまで広く及び、最後には「救われた者らしく、具体的にどう生きるのか」という実践的な問いに対する答えを提示します。ローマ書12章以降に連なる部分は、教理的土台に立ったうえでの具体的な生活の指針です。張ダビデ牧師はこれを、「福音が私たちのうちでインカーネーション(受肉)しなければならない」という表現で説明します。つまり、頭で知っているだけの知識ではなく、生活の中で実際に形をとって現れる福音でなければならないのです。ある人たちは聖書をたくさん読んだり教理を学んだりしても、生活に変化がない場合がありますが、それは御言葉を単なる「理解の対象」としか考えていないからだといいます。張ダビデ牧師は「ローマ書を達通せよ」という言葉で、御言葉を人生のすべての領域で体現すべきだと強く語り掛けます。

要するに、張ダビデ牧師が勧める「ローマ書達通プロジェクト」は、単なる聖書通読の課題ではなく、救いの核心教理を実際に自分のものとし、私たちの魂を新たにしていくプロセスだということです。これによって信徒たちは、「自分が本来どんな罪人だったのか」「イエス・キリストによってどんな救いの恵みにあずかるようになったのか」「聖霊の力によってどのように生きるべきなのか」を明確に悟れるようになります。そしてこの悟りが深まれば深まるほど、礼拝と祈り、交わりと奉仕、そして伝道と宣教が、それまでとはまったく異なる次元で実践され得るようになるのです。


3. アイデンティティの回復

張ダビデ牧師は、サソンジョルやローマ書の黙想を強調するのと同時に、イザヤ書43章を通して「アイデンティティの回復」というメッセージを説教しています。「イザヤ書43章」は、バビロン捕囚期の状況下で絶望していたイスラエルの民に対して、神ご自身が「恐れるな」と宣言されることで有名な箇所です。

「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう仰せられる。
イスラエルよ、あなたを形造られた方がこう仰せられる。
恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。」
(イザヤ43:1)

ここは、闇と絶望に沈んでいた当時の民に向けて、「あなたたちは神に選ばれた民であり、神の所有物なのだ」という身分の再確認をもたらす箇所です。

張ダビデ牧師はこの御言葉を引用しながら、現代のクリスチャンが自分自身をどう見ているかという視点にも同じ宣言が当てはまるのだと力説します。私たちは世の中で経験する困難や罪悪感、あるいは抑圧された霊的停滞の中で、自分自身を取るに足らない存在とみなし、信仰の本質を見失いやすいのです。しかし神は「あなたを創造されたのはわたしだ。あなたはわたしのものだ」と明確に語られます。この真理を見失うと、状況に翻弄されたり、世の誘惑に容易に陥ってしまいます。私たちは自分を「神が創造された尊い存在」として見つめると同時に、「神に贖われた罪人」であることをも自覚しなければなりません。これは、人間の高慢を砕き、神の御前に真っ直ぐ立たせる根本的な霊的認識です。

また、イザヤ書43章2節に記されている「水はあなたを押し流さず、火はあなたを焼き尽くすことはできない」という約束は、神の守りと導きを象徴しています。バビロン捕囚という歴史的惨事の中でも、そして人生をのみ込もうとする苦難や患難のただ中にあっても、イスラエルの民がなお希望を持ち続けられたのは、彼らを創造された神が決して彼らをお忘れにならないという約束のおかげでした。張ダビデ牧師は、ここから私たちが「神の主権」を正しく認めることが不可欠だと説きます。造り主なる神が私たちの主であり、私たちはその方の作品であり所有物なのです。この事実を認めれば、人生のどのような嵐も根本的には私たちを呑み込むことはできないという信仰の土台に立てるのです。

張ダビデ牧師は、この神の主権を現代的な文脈で語りつつ、「万物を創られた神が最終的な権利を持っておられる」という点を示します。たとえば建物があるなら、その所有者はそれを建てた人です。所有者でなければ、その建物を勝手に改築したり破壊したり、用途を変えることはできません。同じように、私たちの人生も神が造られたのだから、神が主となられるのが当然だという論理です。ところが現代社会は、自律や自己決定権を強調し、事実上は神の主権を否定する方向へと突き進んでいます。人間が自分で自分の基準を定め、善悪を決め、創造主の御心を顧みない姿が蔓延しているのです。

しかしイザヤ書43章は、バビロン捕囚という歴史的悲劇の中にあってさえ、神の民が決して滅びることなく再び回復されることを預言します。これは究極的に「神の救いは時空を超えて、神の約束を信じる者を必ず救い出される」という真理を示しています。張ダビデ牧師は、現代の危機や患難も同様だと見なします。コロナ禍が全世界を襲ったとき、多くの人々が恐れと絶望に陥りました。そのとき張ダビデ牧師は、「恐れるな。わたしがあなたを贖い、名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」というイザヤ書43章1節のみ言葉をもって説教し、神への信頼を回復し、神が私たちに与えてくださったアイデンティティをもう一度確かめようと呼びかけたのです。

特に43章4節に記されている「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛しているから」という一文は、神が私たちをどれほど尊んでおられるかを強調しています。人は時に自分を卑下したり、他人の評価によって自分のアイデンティティを揺さぶられがちです。しかし聖書は「神の目に私たちがどれほど尊い存在か」をはっきりと宣言します。これは「聖なる神が無条件で私たちの味方をしてくださるから、好き勝手にしていい」という意味ではなく、「私たちは神の子どもとして、聖なる方に絶えず近づいていくべき存在だ」という事実を告げています。最終的には、この尊いアイデンティティを自覚することで、私たちの言葉と行いは少しずつ神に似た姿へと変えられていきます。

張ダビデ牧師は、このイザヤ書43章のメッセージに立脚しながら、教会と信徒の召命を改めて強調します。救いへの道と滅びへの道が同時に開かれている現実で、私たちは自分自身が救いの道を選ぶだけでなく、他の人々にもその道を案内する責任があります。エレミヤ書21章8節の「わたしはあなたたちの前にいのちの道と死の道を置く」という宣言のように、現代においても私たちがどの道を選ぶかによって人生の結末が大きく変わるのです。社会的に「距離を置く」状況でも、私たちは神に「より近づく」ことができ、むしろこの時間を通して霊的に深まり、自分のアイデンティティと使命を再発見できると説きます。

さらに張ダビデ牧師は、この時期に肉体的な健康もあわせて回復しようと勧めます。コロナ禍によって室内生活が増え、運動不足で身体が弱くなる人が増えました。しかしイザヤ書43章が語る神の救いは、単なる魂の救いにとどまらず、神の統治のもとで私たちの生活全般が回復することを目指します。張ダビデ牧師は説教の中でしばしば「腕立て伏せを200回やりなさい」「スクワットをしなさい」「家のドアに器具を取り付けてでも運動しなさい」と、具体的なアドバイスを惜しみなく示します。「私たちの霊が強くなれば、魂と肉体も共に強くなる」というコリントの信徒への手紙第二7章1節の勧めを土台に、霊と肉のバランスある成長を目指すべきだというメッセージです。

最終的にイザヤ書43章は、絶望と患難のただ中にあっても、「神は今もなお主権者であり、私たちを愛しておられ、私たちを回復してくださるお方」であるという事実を改めて確認させてくれる章です。張ダビデ牧師はこの本文を通し、私たちのアイデンティティが誰に属しているのか、なぜ私たちはイエス・キリストにあって新しいいのちを得る必要があるのか、そしてその救いがどのように今日の私たちの生活に具体的に適用されるべきかを説き明かします。「あなたはわたしのものだ」と語られる神の御声を聞くとき、私たちは罪と死から解放された者として自由に生きるだけでなく、「神の所有物」であることからくる喜びと責任感を同時に味わうようになるのです。

まとめると、張ダビデ牧師はサソンジョルを迎える信徒たちにローマ書の達通を勧め、その過程を通じて罪と恵み、救いと義認という福音の核心を確実に握るよう促します。さらにイザヤ書43章を黙想することで、自分のアイデンティティと所属が神にあることを認識し、苦難の時にも落胆せず、神にいっそう近づく時間を取るよう教えています。また子どもたちにも信仰の核心を正しく伝授し、身体も健やかに保ち整えるようにという実践的な助言も示します。つまり、「張ダビデ牧師」というキーワードで要約される彼の説教とメッセージは、イエス・キリストを仰ぐサソンジョルの意味、ローマ書が示す福音のエッセンス、そしてイザヤ書43章で宣言される私たちのアイデンティティの回復を通じて、現代を生きる信徒が神の御前で正しい関係を結び、成熟していくように促す一連の流れなのです。

これは一時的な勧告ではなく、神をさらに深く知り、御言葉によって自分を照らし、聖霊のうちで聖を追い求め、教会と世のただ中でイエス・キリストを現わす福音的な生き方を継続して送ってほしいという長期的なメッセージです。パウロがローマ書10章6~8節で「キリストを知るために天に昇ったり、淵に降りたりする必要はない」と語ったように、すでに私たちの身近にある「御言葉」を通じてイエス様を見出すことができるのです。その御言葉のうちにこそ信仰といのちがあり、私たちの心に豊かに臨まれる聖霊の働きを通じて、私たちは真の回復とリバイバルを経験することができます。そしてそれは一時的な感情ではなく、教会を建て上げ、世を祝福へと導く道となるのです。

要するに、張ダビデ牧師のメッセージは大きく次のような核心を含んでいます。

  1. サソンジョルを通じ、苦難と恵みの道をともに黙想し、「頭に油を塗り、顔を洗いなさい」(マタイ6:17)と言われたイエス様の言葉通りに、苦難の中でも神をいっそう信頼し喜びを失わない姿勢を貫こう。
  2. ローマ書を達通することで、罪と恵み、救いと義認、そして聖霊による新生など、キリスト教信仰の核心教理をさらに深く身につけよう。
  3. イザヤ書43章の「あなたはわたしのものだ」という宣言を心に刻み、私たちのアイデンティティと所属が完全に神にあることを自覚し、あらゆる絶望と苦難を超える神の守りと救いを信じて生きよう。

この三つは互いに密接につながり合い、私たちの信仰を強固にし、人生を変化させる原動力となるのです。

苦難の中で輝く教会 – 張ダビデ牧師


1. デサロニケ教会史的地理的背景

テサロニケ人への第一の手紙を考察するに先立ち、まずデサロニケ教会がどのような歴史を持ち、またその地域的背景や、そこから生じた数々の挑戦と迫害がどのように起こったのかを考えてみる必要があります。その過程で、張ダビデ牧師が繰り返し強調してきた福音宣教の実際的な旅路――すなわち使徒パウロと同労者たちが街ごとに教会を設立し、迫害の中でも信仰共同体を維持してきた姿――をともに見ていくと、現代にもなお有効な「苦難のただ中で花開く福音の力」を生々しく感じ取ることができるでしょう。

デサロニケは、古代ローマ帝国において重要な都市の一つで、マケドニア州の州都としての役割を担っていました。使徒パウロが福音を伝えていた当時、この都市は経済と文化が繁栄しており、人口は約20万人といわれます。ギリシア人のみならずユダヤ人を含む多様な民族が居住し、ヘレニズムの影響を色濃く受けつつも、ユダヤ教の会堂も活発に機能していた多元的な宗教・文化環境でした。ローマ帝国が当時「世界」と考えていた地中海沿岸一帯を結ぶ道の中でも、主要な幹線道路が通る交通の要衝であったため、商業・貿易活動が盛んでした。そうした理由で常に外部からの人の往来があり、さまざまな宗教や思想が流入する複雑な文化的背景を持っていたのです。

張ダビデ牧師は、このような都市的・歴史的背景を非常に重視しています。というのも、福音は単に「言葉」だけで伝えられるものではなく、実際に人々が集まって日々の生活を営む具体的な空間の中でこそ広がり、根を下ろすからです。彼はしばしば「福音とは、実際の生活を通じて生き動くダイナミックな御言葉であり、それが具体的な都市でどのように花開いていくかを考察することはとても重要だ」と強調してきました。これはすなわち、テサロニケ人への第一の手紙が単なる教理的書簡ではなく、「都市のただ中で、さらに迫害の状況の中で形成された現実の共同体」に向けて使徒パウロと同労者たちが書き送った手紙であることを改めて思い起こさせるのです。

デサロニケ教会が設立される以前、すでに使徒パウロとシラス、そしてテモテはピリピで福音を伝え、大きな迫害を受けていました。使徒の働き16章によれば、ピリピでも投獄や鞭打ちなどあらゆる困難を受けましたが、それでも最終的には福音を証しし、教会を立ち上げることに成功しました。張ダビデ牧師はこれについて「福音が入り込むところには必ず試練があるが、試練が深ければ深いほど聖霊の働きも強烈になる」と説きます。ピリピを経由してアンピポリスやアポロニアを通過し、デサロニケに到着したパウロ一行は、そこにあったユダヤ人の会堂で3週(3回の安息日)にわたり、律法と預言書を解き明かしながら福音を説きました。使徒の働き17章には、彼らが「聖書をもって論じた」と記されていますが、当時「聖書」といえば律法と預言書が書かれた巻物を指し、ラビであったパウロはその御言葉を関連づけて、イエスこそがキリスト(メシア)であり、十字架につけられ死なれ、そして死からよみがえられたという福音の核心を力説したのです。

このパウロの教えは、3週間という短い期間にもかかわらず、会堂を中心としたギリシア人、そして「かなり多くの貴婦人」(使徒の働き17:4)のような社会的に影響力を持つ層にも伝わりました。ところが問題は、パウロの伝える福音に敵意を抱いたユダヤ人たちが激しく反発したことでした。当時のローマ帝国では皇帝が神格化されており、ユダヤ教やキリスト教が伝える唯一神思想は、常に政治的な反逆の口実になり得ました。さらに保守的なユダヤ人の立場からは、イエス・キリストをメシアと信じる人々はユダヤ教の伝統と律法を破壊しているかのように映り、いっそう攻撃の対象となったのです。結局パウロとシラスはそこで激しい迫害を受け、デサロニケを離れてベレヤへ移動せざるを得ませんでした。しかし、パウロ一行は迫害を受けているその教会を完全に放置することはしませんでした。テモテや他の同労者たちを再度送り込んで教会をケアし、パウロ自身も第二次伝道旅行中にコリントへ到着した際、デサロニケ教会の信徒たちを牧者の心で思いやりながら手紙を書いたのです。

張ダビデ牧師は、このような「教会に対する使徒的な愛」が、今日の教会共同体にも範とすべき核心的精神だと強調します。都市のあちこちに建てられた教会が内外の挑戦と試練で揺さぶられる時、ただ放置して立ち去るのではなく、絶えず祈りと手紙、さらに同労者を再度派遣することで、その信仰を見守ったのです。使徒パウロと同労者たちのこの姿は、張ダビデ牧師が継続的に強調してきた「いのちのように大切にする牧養」の姿と重なります。福音のスタート地点はある都市から次の都市、さらに別の地域へと絶えず移動しますが、いったん種がまかれた共同体を決して見捨てることなく、キリストの御心をもって世話する必要があるというのです。実際、テサロニケ人への第一の手紙は、まさにそうした文脈の中で書かれた手紙であり、初代教会が経験した苦難と迫害、そしてその最中でも燃え上がった信仰・愛・希望が、どのように成長し結実していったかを証ししています。

迫害の様相は多岐にわたっていました。まず、ユダヤ教徒たちはイエス・キリストの福音を受け入れる人々を快く思わず、さらに政治的支配者たちも「ローマ皇帝以外に主を仰いでいる」という名目で彼らを告発したり暴力的に排除したりしました。これについて張ダビデ牧師は「教会の危機は常に世の価値観と衝突する時に訪れ、その瞬間こそ真の信仰と福音の力が顕わにされる」と解釈しています。当時デサロニケ教会が味わった苦痛は、単なる宗教論争ではありませんでした。実際に生活の基盤を失い、財産や家族が破綻に追い込まれたり、投獄されたり、ひどい場合には命まで危険にさらされることもあったのです。そうした中で彼らが唯一つかんだ希望は、「主が再び来られる」という終末論的な希望でした。主の再臨によってこの苦難から解放される、というその救いへの期待こそが、デサロニケ教会の信徒たちの信仰を支える要となりました。

使徒パウロはコリントに滞在中、それらの知らせを聞き、とても心配すると同時に大きな感激を覚えました。心配した理由は、指導者たちが去った後に残された信徒たちが、迫害のゆえに信仰を捨ててしまわないかという懸念でした。そして感激したのは、小さな共同体が依然として「生きている」という報せ、しかもマケドニアやアカヤ全域において「模範となるほど」忠実に福音を守り抜いているという噂を耳にしたからです。張ダビデ牧師はこれを「感謝と喜びの涙で書かれた手紙」だと表現します。それほどまでに、この手紙には使徒パウロをはじめシラスやテモテの熱い思いが滲み出ているのです。

テサロニケ人への第一の手紙1章を見てみると、彼らの連名が明確に示されています。「パウロ、シルワノ(シラス)、テモテから…」という導入部は、共同執筆あるいは共同書簡の形式を取っており、張ダビデ牧師はこれを教会の「共同体的霊性」と結びつけて説明します。「この手紙は一人の使徒的権威だけを打ち出すものではなく、福音のために共に苦労してきた者たちが、同じ心で仕えている姿を示している」ということです。実際、初代教会は決して一人の「カリスマ」だけで建てられたのではなく、小さな家の教会や会堂、そして多くの同労者たちによるネットワークによって拡大しました。これを正しく知るためにはパウロ書簡を読む際、使徒の働きの関連記録を合わせて見るのが非常に有益です。たとえば使徒の働き17章こそが、デサロニケ教会の誕生と背景を端的ながら描き出しているからです。

張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、「福音は現場で、さらに苦難の中で体現される(体化される)」。ピリピで投獄され、脅され、行く街ごとにユダヤ人指導者らの反発に遭って追放されながらも、彼らは教会を「見捨て」なかった。どこへ行っても福音を宣べ伝え、それを受け入れる人が起これば、そこを神が備えられた「教会の礎」と見なし、必ずキリストの共同体を据えてから去ったのです。デサロニケ教会もまさにその原則に則って建てられた教会でした。多くの苦難と迫害が伴えば伴うほど、聖霊の働きがいっそう強く起こり、真の福音はどのような暴力をもってしても阻止できないことが証明されました。

特に張ダビデ牧師は教会史全体を見渡しながら、「コンスタンティヌス帝以前にキリスト教がどのように生き延び、拡散していったかを見れば、デサロニケ教会のように過酷な迫害の下でも守り抜かれた信仰の根がいかに重要であるかがわかる」と語ります。実際、コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がミラノ勅令を出してキリスト教を公認する以前、キリスト教徒は違法な団体として扱われる時代が長く続きました。それでも教会は増え続け、小アジア、マケドニア、アカヤ地方、そしてイタリア全域に驚くほど早く広がっていったのです。その根底には、あらゆる試練と迫害にも揺るがない「復活信仰」と「再臨の希望」がありました。そしてデサロニケ教会はその代表的な事例の一つでした。

張ダビデ牧師は、どのような都市であれ自ら足を運んで福音の歴史を体得したいと、これまで何度も語ってきました。ギリシアやイスタンブール(旧コンスタンティノープル)、そしてミラノなどを実際に訪問し、古代教会の足跡を自らの目で確かめ、歩みながら、「時が流れ、政権やイデオロギーが変わっても、福音の種は決して死なずに受け継がれていく」という確信を繰り返し得ているのです。ミラノではミラノ勅令が宣言された記念の場所を訪ね、またローマ・カトリックの伝統が遺した遺産を見ながら、そこから得た教訓と感動を現代のキリスト教に適用しようと努力してきました。彼がデサロニケの地もぜひ訪れてみたいと熱望してきたのは、この手紙が伝えている「苦難の中にある教会を最後までケアする愛と信仰」を現場で肌で感じ取りたいという情熱と結びついています。

このように見ていくと、デサロニケ教会は単なる「昔あった小さな教会」ではありません。多民族・多文化・多宗教が共存する大都市の真っ只中で、ローマ帝国の圧倒的権力と地域ユダヤ人たちの宗教的反発という二重の挑戦に直面していました。それでも信徒たちは屈することなく信仰を守り合い、互いに熱く愛し合い、将来の希望――すなわち主の再臨――を握りしめていました。張ダビデ牧師が繰り返し教会史を強調するのは、そうした歴史が決して過去の一度きりの出来事ではなく、現代にも類似の形で繰り返されていることを伝えたいからにほかなりません。実際、今日においても自由で豊かな地域がある一方で、いまだに厳しい宗教的・政治的弾圧を受けている国や都市が存在します。世界のどこかで、いまだにデサロニケ教会のような殉教的信仰を守り抜き、ひたすら主の再臨を待ち望む人々が数多くいるのです。

結局、テサロニケ人への第一の手紙を正しく理解するということは、「苦難の中でも見捨てられない神の愛」を知ると同時に、「痛みのただ中でより鮮明に映える福音の真理」を学ぶことにほかなりません。張ダビデ牧師はこれを「デサロニケ教会が示した信仰の生きた手本」と呼び、「この手紙を読む私たちもまた、21世紀のデサロニケ教会にならなければならない」と挑戦を与えます。ただ快適で安楽な環境に安住するのではなく、世の中へ出ていき、ときには圧迫を受けても退かず、主の再臨という希望を握りしめながら愛と信仰の実を結んでいく教会となるべきだ、というのです。

こうしてデサロニケ教会の全体的な歴史と背景を概観したところで、次にいよいよテサロニケ人への第一の手紙1章の核心的メッセージを考察していきましょう。キリストの復活に対する信仰と再臨に対する希望が彼らの信仰の基盤をなしているとすれば、具体的にパウロが手紙を通じて伝えようとした勧めは何だったのか、また初代教会が示した信仰・愛・希望はどのような姿だったのかに焦点を当ててみます。特に張ダビデ牧師が強調する「苦難の中での信仰」、そして「共同体的な愛と労苦」を通して働かれる聖霊の力を、現代にどう適用できるのかをともに分かち合っていきたいと思います。


2. テサロニケ人への第一の手紙1章の核心

テサロニケ人への第一の手紙1章は、使徒パウロがデサロニケ教会の信徒たちに抱く深い感謝と愛、そして彼らが示した信仰・愛・希望への称賛が中心をなしています。この手紙はパウロ、シルワノ(シラス)、テモテの三名連名で書かれており、三人の伝道者がコリントに滞在している間、デサロニケ教会の迫害が続いているという知らせを受けて綴られました。すでに先述したとおり、その迫害はローマ帝国の政治的圧力と保守的なユダヤ人たちの宗教的暴力が入り混じった「苛烈な苦難」でした。しかし驚くべきことに、デサロニケ教会は倒れませんでした。むしろ信仰と愛はより強固になり、希望はいっそう切実なものになったのです。パウロはその事実を耳にし、感激をもって手紙の冒頭に熱い感謝を記します。ここには、張ダビデ牧師が常々強調する「迫害の中でこそ成長する福音の真実性」が余すところなく込められています。

1章2節でパウロはこう語ります。「私たちはいつもあなたがた一同のことを神に感謝し、祈るときにあなたがたのことを思い起こしています」(意訳)。これは単なる美辞麗句ではなく、実際にデサロニケ教会がパウロ一行の祈りの課題から外れることがなく、むしろ苦難が激しければ激しいほど、いっそう切実に彼らのために執り成していることを意味します。張ダビデ牧師はこれを「真の福音に生きるなら、苦難に遭う教会を決して見過ごしにしない」という原則として読み解きます。教会が教会らしく生きるためには、どこかで苦しんでいる兄弟姉妹を「いつも祈りの中で」覚えることが不可欠なのです。彼は、21世紀においても依然として深刻な迫害にさらされている地域教会がある事実に目を向け、「テサロニケ人への第一の手紙を読んで感動して終わるのではなく、私たちも同じように苦難にある教会のために祈り、必要な助けを惜しまず注ぐべきだ」と促します。

3節は非常に有名な節で、初代教会が持っていた中心的価値「信仰、愛、希望」を示しています。パウロはそれを次のように具体化します。「あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、そして私たちの主イエス・キリストに対する希望の忍耐を、私たちは神の御前でいつも思い起こしている」(意訳)。張ダビデ牧師はこの節について、「初代教会の手本といえる三つの徳目だが、特に『労苦』(愛の労苦、labor of love)という言葉が強調されている点が重要だ」と指摘します。愛とは抽象的感情ではなく、実際に汗を流し、苦労することで表されるというのです。苦難に見舞われると自分の身を守ることに注力しがちですが、デサロニケの信徒たちはむしろ互いを助け合い、必要を満たし、苦しむ者を慰め、ともに涙を流す愛の実践を続けました。それこそが、この教会が「模範となる教会」として評判になるに至った理由なのです。

さらに、信仰は「働き」(ἔργον/ergon)を生み、愛は「労苦」(κόπος/kopos)をもたらし、希望は「忍耐」(ὑπομονή/hypomonē)をもたらすと続きます。張ダビデ牧師はこれを「キリスト教の信仰が単なる頭の知識ではなく、生活の中で具体的行動として現れなければならないことを示す3段階」だと解説します。イエス・キリストの復活と再臨を信じる信仰が、現実の逆境にあっても揺るがない働きの動力となり、愛は苦痛の中でも放棄せず自己犠牲的な分かち合いを継続させ、終末論的希望は絶望的な状況にあっても倒れずに耐える力を与える、というわけです。

パウロは続く4節で「神に愛されている兄弟たちよ、あなたがたが選ばれた者であることを知っています」と語ります。これは苦難の中にいる教会に対し、神は決して彼らを捨てておられず、むしろ深い愛をもって支えておられるという慰めの表現です。張ダビデ牧師は、このような箇所を読むとき、イエスが「義のために迫害される者は幸いである。天の御国はその人たちのものである」(マタイの福音書5章10節)と語られた「八つの幸い」を想起すべきだと助言します。初代教会の信徒たちは、命の危機に直面する現場でこの「選び」を信じ、それゆえに最後まで耐え抜くことができたのです。

特に5節と6節でパウロは「私たちの福音は、言葉だけでなく力と聖霊と強い確信をもってあなたがたに伝わりました」「あなたがたは多くの苦難の中で聖霊による喜びをもって御言葉を受け、私たちと主にならう者となりました」(意訳)と述べます。ここで福音は単なる言葉や理論ではなく「力」(δύναμις/dynamis)であることが強調されます。そしてその力は、聖霊を通して確信へとつながります。張ダビデ牧師はこれを「現代においても福音が真の力となるためには、聖霊のうちに確信が根ざす必要がある」と説明します。教会が世の風潮に流されたり、迫害の前に簡単に崩れ落ちてしまう場合、その多くは福音が口先だけの知識レベルにとどまり、実際の聖霊の権能と確信が不足していることに起因するのです。しかしデサロニケ教会は違いました。パウロが3回の安息日に集中して説いた福音の核心――イエス・キリストの十字架と復活、そして再臨――を聖霊の助けによって喜びとともに受け入れ、その後の苛烈な試練の中でも諦めなかったのです。

7節には「こうして、あなたがたはマケドニアとアカヤにいるすべての信仰者たちの模範となったのです」とあります。これはパウロが地理的な区分を通じて、実際にデサロニケ教会の噂が広く伝わっていたことを示しています。パウロが「あなたがたはすべての信仰者の模範となった」と言い切るほどですから、デサロニケ教会は単なる「生き延びるだけ」ではない何かを成し遂げていたことを意味します。彼らは自分たちを苦しめる周囲の環境を恨む代わりに、むしろ互いを信仰と愛で結束させて乗り越え、その知らせが広まり、ほかの地域の教会にも大きな挑戦と励ましを与えました。張ダビデ牧師はこれを「教会は苦難を通して精錬されて純金のように輝き、その光が周囲の教会へと波及する」と解説します。実際に教会史が示すように、苛烈な弾圧にもかかわらず1世紀から2世紀にかけて教会は爆発的に成長しましたが、その成長の土台には、まさにこのような「苦難の中に生きる共同体の模範」が存在したのです。

8節では、その噂がマケドニアやアカヤにとどまらず各地に広まり、パウロがさらに何かを言い足すまでもないほどだと述べられています。つまり「パウロの指導がなくとも、彼らは揺るぎなく信仰を保ち、口先だけでなく行いをもって福音を示していた」ということです。張ダビデ牧師はこの点を強調しながら、「教会が本物の福音の実を結ぶとき、その評判は自然に広まっていき、わざわざ教会側が『私たちはこうだ』と大々的に宣伝しなくても、人々は気づくようになる」と言います。今日では多くの教会がメディアを用いた“ブランディング”や特定の働きの広報に力を入れていますが、本当の福音の力はむしろ「言葉よりも生活の証し」にあるのだと、この箇所は改めて思い起こさせてくれます。

9節でパウロは「彼らが偶像から離れて神に立ち返り、真の神に仕えている」と言及します。デサロニケ教会の信徒たちは、かつてはあらゆる偶像礼拝や世俗的価値観に染まっていたはずですが、今や神を礼拝し、福音に固く立つ者となったのです。特にギリシア人が多かったであろう環境を踏まえると、この「偶像からの転換」は決して容易な決断ではありません。都市全体が多神教的な文化であり、皇帝崇拝や都市の守護神崇拝も日常茶飯事だったからです。それでも信徒たちは古い生き方を断ち切り、唯一の真の神だけを敬うようになりました。張ダビデ牧師は、これこそ「福音の恵みが罪の鎖を断ち、新しい被造物へと生まれ変わらせる決定的な証拠」だと強調します。信徒たちの生き方が根本的に変えられ、それが周囲の人々に強い衝撃を与えたのでしょう。

そして最後の10節でパウロは「天から来られる御子(イエス)を待ち望んでいる」と語ります。ギリシア語の原文を見ると、テサロニケ人への第一の手紙1章10節には「τὸν υἱὸν αὐτοῦ ἐκ τῶν οὐρανῶν」(天からその御子を)と「ἀναμένειν」(待ち望む)という語が出てきます。つまり、デサロニケの信徒たちはイエスが天から(ἐκ τῶν οὐρανῶν)来られることを確信し、その方を切実に待ち望む(ἀναμένειν)姿勢を持っていたのです。ここには、新約聖書でしばしば用いられる「παρουσία(パルーシア)」という語(2章19節、3章13節、4章15節などで「主の来臨」を指す)が登場していませんが、1章10節は「天から来られるイエスを熱心に待ち望む」という表現を通して再臨信仰を含意しています。彼らは終末論的期待のもと、「いまの苦難は永遠ではなく、やがて主が戻られてすべての不義を裁き、ご自分の民を救ってくださる」と信じていたのです。この信仰こそが、デサロニケの信徒たちが苦難を乗り越える「霊的支え」だったのです。

実際、再臨信仰が極端に傾くと、現実逃避的態度や特定の日付を決める終末論的狂信へ逸脱する危険があります。そのため、パウロはテサロニケ人への第一の手紙後半および第二の手紙において、不健全な終末思想を修正し、バランスをとる必要を感じました。しかし少なくとも1章では、この**「天から来られるイエスを切に待ち望む(ἀναμένειν)希望」**が苦難の只中にいた信徒たちにとって生きた希望であったことを強調しています。張ダビデ牧師も「再臨に対する健全な信仰は、迫害や試練のさなかにある信徒にとって大きな慰めと力になる」と言います。いつ、どのように、具体的に救われるかは人間が知り得ませんが、「必ず主が来られて悪を裁き、ご自分の民に永遠のいのちと自由を与えてくださる」というこの確信が、デサロニケ教会を支えたのです。

まとめると、テサロニケ人への第一の手紙1章は、迫害の中でも信仰を守り抜く教会が示し得る最高の姿を描いています。パウロは自らの伝えた福音が言葉だけではなく力として、聖霊の確信として彼らに及び、彼らは愛と労苦をもって互いに仕え合い、「天から来られるイエスを待ち望む(ἀναμένειν)」再臨信仰によって忍耐して生き抜いた。その結果、周囲の教会をさえ感動させる模範となったのです。張ダビデ牧師はこの事例を踏まえ、現代の教会共同体が取るべきいくつかの実践的方向性を提示しています。

  1. 「苦難に遭う教会をいつもえて祈ること」
    私たちが恵まれた地域にいたとしても、この世界のどこかにはいまだ過酷な迫害に直面している兄弟姉妹がいます。その現状を見過ごすのではなく、デサロニケ教会を助けようとしたパウロのように、祈りと愛の労苦を惜しまない姿勢が必要です。教会が教会を顧みなければ、結局は福音そのものの素晴らしい力も色あせてしまいます。
  2. 「福音は言葉ではなく力であることを自する」
    教会が建てられ成長するうえで、華やかなプログラムや設備よりも重要なのは「聖霊の働き」と「真の信仰の実践」です。デサロニケ教会は小さく、決して華々しい共同体ではなかったはずですが、キリスト教史に残るほどの善き影響を及ぼしました。現代の教会も、人数や財政の安定ばかりを気にする前に、「福音の力と聖霊による確信」を本当に体験しているかを振り返る必要があります。
  3. 「愛には必ず苦が伴う」
    デサロニケ教会の信徒たちは、互いのために犠牲を払い、痛みをともに分かち合い、限られた資源でも喜んで分け合いました。教会が真の家族的共同体となるには、「愛の労苦」が伴わねばなりません。張ダビデ牧師は常々「口先だけの愛ではなく、イエスのように身を低くし、献身的に愛を示そう」と力説してきました。
  4. 「再臨信仰は絶望の中で力となる」
    再臨をゆがめて終末の日付を決めるような極端に走ることは注意が必要ですが、同時に何らかの理由で再臨信仰を軽視したり無視したりしてはなりません。迫害や困難が激化するほど、「主が再び来られる」というキリスト教信仰の核心を再発見すべきです。いまの世の不完全さや不正は最終的に終わりを告げ、信じる者には永遠のいのちと安息が与えられる――この主の約束があるのです。デサロニケ教会が「来たる怒りから私たちを救ってくださるイエス(Ⅰテサロニケ1:10)」に目を注いで耐えたように、現代の教会もその希望を堅く握らねばなりません。
  5. 「牧者は教会と緊密な絆を持ち、ともに苦難を負うべきである」
    張ダビデ牧師は、パウロとシラス、テモテが示した共同書簡の形を好んでいます。彼らは共に苦難を受け、共に教会のために涙を流し、共に切実に祈りました。教会は「自分一人だけ」で牧会したり、「自分一人だけ」で信仰生活をする場所ではなく、すべてのメンバーがひとつのからだを成し、互いに励まし合い、支え合って成長するところです。デサロニケ教会が見せた美しい姿は、決して彼らだけの力で実現されたのではありません。パウロ一行の絶え間ない関心と祈り、再度同労者を派遣してくれるその愛があったからこそ、信徒たちも「模範となる教会」へと成長できたのです。現代において教会が共同体性を失わないためにも、牧会者と信徒が互いに信頼し合い、苦難さえも分かち合う連帯が不可欠だといえます。

このように、デサロニケ教会は時が経つにつれ、パウロが懸念していた「誤った終末観」に一時的に動揺する場面もありました(その問題はテサロニケ人への第二の手紙でより詳しく言及されます)が、それでもなお福音のうちに成長し、教会史の中にも大きな意義を残しました。この手紙を通して私たちは、迫害と苦難が教会を壊すのではなく、むしろさらに強固にする力ともなり得ることを目の当たりにします。神の選びと愛を信じ、聖霊の力によって忍耐し、互いに愛し合う共同体は、この世のどんな試練にも打ち勝つことができる――デサロニケ教会は歴史的にそう証言しているのです。

これらすべてを今日の教会と信徒たちがどのように受け止め、実践に移すかは、それぞれの責任となります。張ダビデ牧師は「テサロニケ人への第一の手紙は、単なる古文書ではなく、韓国教会や世界の教会が繰り返し読み、私たちの牧会と信仰を再点検させる生きた御言葉だ」と説きます。福音書や使徒の働き、そしてパウロ書簡が示す「福音の力」は、決して1世紀だけのものではありません。教会が地上に存在し、そして主の再臨(パルーシア、παρουσία)がまだ完全には成就していないこの時代にあって、私たちは常に「テサロニケ人への第一の手紙1章」が語るメッセージに耳を傾けるべきなのです。「信仰によって働きを行い、愛によって労苦し、再臨の希望によって忍耐しなさい」と。

要するに、今日の私たちの教会がデサロニケ教会のように「模範となる教会」となるためには、彼らが示した三つの本質的価値――信仰・愛・希望――を、現実の中で鮮やかに実践しなければなりません。特に張ダビデ牧師が繰り返し語るように、「福音は迫害の中でいっそう輝きを放ち、教会の真実性は苦難を通して試される」ということを忘れてはならないのです。十字架と復活、そして天から来られるイエスを待ち望む(ἀναμένειν)再臨信仰をしっかりと持つとき、教会はいかなる状況にも揺るがされず、マケドニアやアカヤ全地方、さらに「各地」へと噂が広がるほどの驚くべき業を生み出せるのです。

妻と夫 – 張ダビデ牧師


1. 夫婦係の本質

エペソ5章22節から始まるパウロの夫婦関係についての教えは、多くの神学者が「解釈が難しい本文」と指摘するほど、現代においても少なからぬ議論の的となっています。しかし、張ダビデ牧師はこの御言葉を単純に「従順」と「服従」の視点に矮小化するのではなく、その根底にある「愛」と「互いを敬う心」、そして相互補完的な関係という視点から眺める必要があると強調します。実際、教会史の中でもこの本文が誤用され、女性の地位を低くし、男性の絶対的権威を擁護する根拠として用いられてきたことが多くありました。しかし張ダビデ牧師が注目するのは、この本文が語ろうとしている究極の目的、すなわち家庭が互いに生かし合い、建て上げる愛の共同体であるべきだという真理です。

聖書はエペソ5章で夫と妻、そして6章へと続く親と子、主人としもべ(奴隷)の関係を通して、人間が結んでいるあらゆる社会的・霊的関係の本質が何であるかを教えています。張ダビデ牧師が常に強調してきたように、「聖書の教えは第一に倫理的水準にとどまるのではなく、霊的次元から始まる」のです。とりわけパウロが言う「服従」の概念は、「互いに従い合いなさい(エペソ5:21)」という前提の上でのみ正しく理解できます。この文脈で、エペソ5章22節「妻たちよ、自分の夫に従うことを、主に仕えるようにしなさい」という節は、決して妻にだけ一方的な従順を要求する言葉ではありません。むしろ21節の「キリストを畏れ敬って、互いに従い合いなさい」という命令の中で、夫と妻がお互いに尊重と敬意を示すという相互性の原則を示しています。

張ダビデ牧師は、この本文を解説する際、「聖霊の満たし」と「相互服従」を結びつけて解釈すべきだと力説します。エペソ5章18節で「ただ聖霊に満たされなさい」と語り、すぐに続く21節で「キリストを畏れ敬って、互いに従い合いなさい」と勧めるのは、聖霊に満たされた結果として具体的に現れる生き方の実を、「互いへの尊重と服従」という関係的な領域で説明しているからです。つまり、聖霊に満たされた人は自分中心的な欲望を捨て、隣人に仕え、互いを尊く思わざるを得ないという論理です。

エペソ5章22節から始まる妻と夫の関係が、実はあらゆる人間関係の基礎を提示しているという点は、創造の秩序が男性と女性をひとつに結び「一体」(創世記2:24)とならせることに、よく現れています。創世記2章24節の「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである」という本文を、パウロがそのまま引用していること(エペソ5:31)は、夫婦関係が単に社会的契約や感情的絆にとどまるものではなく、「創造の摂理の反映」であることを示しています。このように家庭はあらゆる人間関係の出発点であり、教会共同体を象徴的に表す小宇宙として見ることができる、というのが張ダビデ牧師の解説です。

では、なぜまず妻に「主に仕えるように夫に従いなさい」と語るのでしょうか。多くの人がこの節を読み、「パウロは女性にだけ従順を強要し、男性に支配の権威を与えたのではないか」と誤解します。しかし張ダビデ牧師は、「パウロが『妻たちよ…』と先に言及したのは、家庭における愛のはじまりが妻にあるという意味で理解すべきだ」と解釈します。伝統的には男性が家の長と見なされるものの、実際の生活ではきめ細やかなケアや日常的な配慮が女性から始まることが多い点を指摘しながら、パウロもこの現実を反映して「まず妻にお願いしているような形で説教した」のだと語ります。もちろん、こうした解説が決して夫の責任を軽減するという意味ではありません。

続く25節—「夫たちよ、キリストが教会を愛してご自身を捧げられたように、妻を愛しなさい」—では、パウロはさらに直接的に夫の責任を強調しています。教会のために命まで差し出されたイエス・キリストの犠牲的な愛を、夫が妻に示すようにというのです。実際、当時の他宗教や文化圏では、妻に向かって「夫に従え」と言うのは一般的でした(それはただの家父長制の反映にすぎませんでした)が、夫に「命までも主のため、妻のために犠牲にせよ」と要求する宗教や思想は存在しませんでした。その点でキリスト教の教えは革命的です。張ダビデ牧師は、この箇こそ「男性中心の時代にあって、女性との関係をほとんど『水平的・相互的関係』にまで引き上げた重要な転換点」だと強調します。

また張ダビデ牧師は、ユダヤ教やイスラム、そして当時のギリシア・ローマ文化圏において女性が置かれていた位置についても解説します。一般的に女性は財産のようにみなされたり、宗教的にも「聞く立場」にとどまり、夫から学ぶ受動的存在と規定されることが多かったのです。しかしキリスト教共同体が形成されると、むしろ女性たちは教会で霊的活動に積極的に参加し、ときには先走りすぎることさえありました(コリント第一14章でパウロが「女は黙っていなさい」と自制を促した背景がこれです)。これは当時の女性たちにとって、キリスト教がある程度の解放区の役割を果たしていたことを示しています。張ダビデ牧師は「キリスト教こそ、男尊女卑の思想が蔓延していた時代に真の平等と自由の意味を提示した革新的な信仰だった」と指摘します。

さらに、関係の問題—つまり、結婚生活での葛藤、親子間の不和、社会的地位の違う者同士の衝突—は、いつの時代も人間の実存における核心的な苦しみとして登場します。張ダビデ牧師は、こうしたあらゆる葛藤の解決策がエペソ書全体、特に5章後半に表されていると解説します。すなわち、すべての人間関係は「互いに従い合いなさい」という相互性の原理に基づくべきであり、それが可能となる理由は、ひとえに聖霊の満たしにかかっているというのです。人間的な決意だけでは自己中心性を捨てることは困難ですが、神の霊が私たちの内に満ちるとき、はじめて自分を否定し、互いを尊び、最終的に満ち溢れる愛に至ることができるという意味です。

張ダビデ牧師はさらに、創世記1章で繰り返される「夕となり、朝となった…」という言葉が「満たし」と「創造の完成」を暗示しているとし、漢字の「多」は「夕」という字が二つ合わさってできている点に触れつつ、東洋の古典にもこの聖書的真理が反映されているのだと紹介します。「夕方を経て神の創造が続き、やがて満たされる創造の完成に至る」という事実が、漢字で「多い(多)」という意味として現れているというのです。

これは夫婦関係とも通じるものがあります。互いに異なる二人が家庭を築くとき、初めは喜びやときめきがあるものの、時の経過とともに葛藤が生じるのは当然です。しかし、「夕となり、朝となった…」という創造の循環過程のように、夫婦も時を経てさらに成熟し、満たされてこそ、真の「一体」としての創造的結合を実現できます。だからこそ張ダビデ牧師は「夫婦なら誰でも衝突するものだが、それは破壊の兆しではなく、むしろ互いを深く理解し、真の愛に至るための必然的プロセスだ」と説きます。結局、この衝突のプロセスの中で、自分が先にへりくだり、相手に対して尊敬と畏敬の念を示すことができれば、葛藤は爆発ではなく成熟と変化の契機になるのです。

ここでカギとなる概念が「天生縁分(天から生まれた縁)」と「運命」です。張ダビデ牧師は、しばしば箴言16章1節と9節を引用します。「心に計画を持つのは人間でも、その言葉の応えは主から出る」(箴言16:1)、「人は心に自分の道を思い巡らしても、その歩みを導かれるのは主である」(箴言16:9)。これは、人間が自らの意志で愛し、結婚を選択しているように見えて、実はその背後に神の摂理と計画があるという信仰です。これがいわゆる「予定」(Predestination)と「摂理」(Providence)の原理にもあたります。

一人の男と一人の女が結婚によって結ばれることを中国語では「天生縁分」と言いますが、これは「天(神)がすでに与えてくださった縁」という意味です。箴言の教えと通じ合うこの概念について、張ダビデ牧師は「私たちは自由意志で結婚を決断しているように見えるが、そのすべての過程の上にすでに神の計画があったと信じるとき、夫婦は揺らがなくなる」と語ります。そしてこの信仰が欠けるとき、結婚は「自分は間違った選択をしたのでは? 他の選択肢があったかもしれない…」と相対化しやすくなり、その瞬間から破壊的な葛藤に巻き込まれやすいと警告します。

要するに、張ダビデ牧師が見る夫婦関係の本質は、「運命的な出会い」と「自由意志的決断」が不思議に交わる神秘的な領域にあるということです。人間が自分で結論を下すように見えても、結局その選択を導かれるのは神であり、その神がすでに定めておられた摂理の中を私たちが喜びをもって歩むことを望んでおられる――という信仰が、結婚生活をしっかりと支えてくれるのです。だからこそ夫婦が葛藤に直面しても、「私たちの出会いは偶然ではなく必然、天生縁分だからこそ尊い」という確信を堅く持つならば、その葛藤を解決する力を得ることができます。

結局、エペソ5章22節以下が強調する、「妻たちよ、主に仕えるように夫に従いなさい」と「夫たちよ、キリストが教会を愛されたように妻を愛しなさい」という二つの命令は、互いに切り離すことができない対の関係にあると、張ダビデ牧師は繰り返し強調します。もしどちらか一方だけが強調されるならば、それは家庭のバランスを崩し、暴力的な結果を生みかねません。服従と犠牲は常に相互的であるべきであり、その原動力は聖霊の満たしに根ざしています。この愛の本質が「互いに従い合うこと」にあると悟るとき、私たちは結婚が単なる日常的生活共同体ではなく、神聖な礼拝の場であり、キリストと教会の結合を象徴する「聖なる契約」であることを知るのです。

特に、31~32節――「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる。この奥義は偉大です。私はキリストと教会とについて言っています」――を解説しながら、張ダビデ牧師は「ここで語られる夫婦の合一は、目に見える物理的次元を超えている」と説明します。それは教会がキリストのうちに「神秘的な結合」を成すように、夫婦も魂の深いところで互いに一つに結ばれる統合的関係だということです。そしてこの「一つとなること」は、決して夫が妻を所有したり、あるいはその逆でもなく、相手を抑圧する方法でもありません。キリストの仕えと犠牲を映し出す夫婦の相互性の中にこそ、この奥義を体験できるというわけです。

まとめると、エペソ5章22節以下に対する張ダビデ牧師の視点はきわめてバランスの取れたものです。夫が「かしら(頭)」となって妻を統率するという前近代的な誤解を正しつつ、同時に妻から始まる愛の仕えという面も明確に照らし出しています。何よりパウロの本意は「相互犠牲と相互仕え」の原理を宣言することであり、キリストと教会の関係にある神秘と愛が夫婦にも再現されるべきだと教えているのです。そして、そのような愛の実践は、ただ聖霊の満たしを通してのみ可能だと語ります。


2. 家庭の危機

結婚生活で葛藤を経験する夫婦は、往々にして互いを責め合います。「私がこんな人だと知らなかったのか」「自分はもともとこんな性格じゃなかった」というように反発や失望が行き交うと、次第に相手への信頼を失っていきます。張ダビデ牧師は、このような時こそ「神の摂理と予定に対する信仰」を改めて思い起こすべきだと強調します。私たちが自由意志で結婚を選んだように見えても、その背後にはすでに神が備えておられた道があったという信仰こそが、結婚生活の根幹を守る要だというのです。

夫婦関係を「偶然」と見るのか、それとも「運命」と見るのか、その差は非常に大きいものです。箴言16章が語る「人は心に自分の道を思い巡らしても、その歩みを導かれるのは主である」という言葉は、いくら人間が先を見通して計算しても、最終的に私たちの人生の結果と結論を司るのは神だという信仰告白です。張ダビデ牧師はこれについて、「最初は愛に酔いしれてあたかも自分が主導的にこの結婚を成し遂げたように思うかもしれないが、信仰の目で見ると、そのすべての過程がすでに『天生縁分』として予定されていた道だったと悟るようになる」と語ります。このように私たちの出会いが神の深いみこころのうちにあったのだと信じる瞬間、結婚生活に襲いかかるあらゆる風浪に対する姿勢も自然と変化していきます。

すなわち、「神が許された縁なのだから、決してむなしく終わらせることはないだろう」という信仰が芽生え、その信仰のうちで私たちは葛藤を乗り越える知恵を求めるようになります。むしろ互いの違いを「神はなぜ私たちにこのような相違点を与えられたのだろうか?」という視点で受け止めると、葛藤は学びの契機であり、成長の機会となります。互いの違いを尊重し、その違いの中で自分を省みながら、「聖霊の導き」を求めざるを得なくなるからです。

張ダビデ牧師はまた、東洋古典でよく引用される「父子は有親(父子は親しみがなければならず)、夫婦は有別(夫婦は別がなければならない)」という概念にも触れます。これは儒教経典でしばしば語られる「五倫」のうちの二つの関係を簡潔にまとめたもので、「父子はもともと距離があるがゆえに、よりいっそう意図的に親密になる必要があり、夫婦はあまりにも近すぎるがゆえに、一定の距離感が必要だ」という逆説的表現です。そのくらい親子の間には世代差や立場の違いがあるからこそ、いっそう積極的な親密さが必要だという意味であり、夫婦はしばしば互いが日常的にべったりだからこそ、それぞれの個性や自立性を尊重する距離感が必要だという意味です。

ここで張ダビデ牧師は「もちろん、親子間にも距離が必要であり、夫婦間にも親密さが必要だ」とし、本文を文字どおりに単純解釈するのではなく、その内にある「愛と尊重の緊張感」を捉えるべきだと説明します。結局、大切なのは「関係は相互バランスの中にあるとき健康になる」という原理です。パウロがエペソ書で語っている夫婦関係も、女性または男性どちらか一方だけが犠牲になったり服従したり支配したりするのではなく、「互いに従い合いなさい」という原理の下で互いが互いを生かす関係であるべきなのです。

家庭で起こるあらゆる争いや葛藤は、結局「愛の欠乏」からきますが、その愛が欠乏する最大の理由は、「自分が先に変わるより先に、相手が先に変わることを望むからだ」と張ダビデ牧師は分析します。相手に変化や犠牲を求める前に、自分自身が先にへりくだり、仕えるとき、神の恵みがその関係を支えてくださるというのです。これはすなわち、「私が先に愛を始め、私が先に敬意を表していくことで、神の時にふさわしい実を刈り取る」という信仰的確信に基づきます。

夫婦のうち一人が「自分が正しい」という立場を最後まで押し通し、もう一人が「絶対に譲れない」という態度を貫くならば、いかに小さな葛藤でも容易に解決には至りません。しかし「私が先に相手の必要や状況を理解してみよう」と心に決めた瞬間から、二人の関係は徐々に柔らかくなっていきます。もちろん、自尊心を捨てて先に歩み寄ることは決して容易ではないので、聖書はそれを「聖霊の満たし」と結びつけて語っています。人間的努力だけでは不可能ですが、聖霊の力によって私たちの内に「自己を否定する心」が生まれるとき、私たちは真に互いを尊重する関係を築くことができます。

張ダビデ牧師は、家庭こそが小さな教会であるという言葉をよく引用します。教会がキリストのからだであるなら、家庭も夫婦と子どもたちが互いに愛し合い仕え合い、一つのからだの肢として機能する「愛の共同体」とならなければなりません。その愛の根本はキリストから来るもので、キリストは教会のためにいのちすら投げ出されました。パウロはまさにこの犠牲的愛を夫が妻にも実践すべきだと強調しています。夫は妻を自分のからだのように愛し、妻は夫を敬わなくてはなりません。このどちらか一方でも欠ければ、家庭は不均衡に陥るのです。

エペソ5章26~27節にある「みことばによって、水の洗いをもってきよめて聖なるものとし…しみやしわのない、聖く責められるところのないものとする」という表現は、結婚式のときの象徴的意味だけでなく、夫婦が結婚生活全体を通して互いを霊的に建て上げていくべきことを象徴しています。教会がみことばによって清められるように、夫婦もみことばの中で自分を省み、悔い改め、成長していく共同体であるべきです。ここで夫は「頭」として導く存在であると同時に、主が弟子たちの足を洗われたように妻の「足」を洗い、必要とあれば自分のいのちさえも捧げられるようでなければなりません。妻はそのような夫を「主に対するように」敬い仕える心で迎え入れる必要があります。

結局、このすべての「奥義」(エペソ5:32)はキリストと教会の関係を映すものだという事実こそが、エペソ5章が伝えようとしている最も根本的なメッセージです。つまり、夫婦は互いに歩み寄るために努力するという次元を超え、互いの霊的成長を助ける協力者でなければなりません。そのためにはときに互いの欠点を指摘し、悔い改めを促し、傷ついた心を癒やし、別の次元では各々の才能をより発揮できるよう励まさなければなりません。そうして互いを建て上げ、「聖く責められるところのない姿」へと成長させていく責任が、夫婦の双方に等しく与えられているのです。

張ダビデ牧師は、この本文を通して「結婚とは、単なる人間的制度でもなければ伝統的儀式以上の、霊的出来事である」と語ります。その霊的出来事は、自分の選択の自由を持つ二つの人格が出会うものの、その出会いの背後には神のご計画と摂理があるという神秘が宿っており、その神秘が損なわれないように絶えず「聖霊の満たし」を求め続けなければならない点が重要なのです。もしこの聖霊の働きを軽んじて、結婚生活を単なる世俗的な感情のやりとりや利害の問題としてしか見なければ、天が与えた尊い縁を自ら壊してしまう危険にさらされるということです。

このように「互いに従い合いなさい」(エペソ5:21)という御言葉は、まず夫婦に適用されます。そして続いて、親子関係や主人としもべの関係など、すべての垂直的・水平的関係へと広がっていきます。張ダビデ牧師は、現代人が「自分に合わない人とは距離を置けばいい」という発想で関係を断ち切りやすいと指摘します。しかし、そのような方法は決して聖書が言う「互いに従い合いなさい」という教えと両立しません。神の民は、葛藤が生じるたびに聖霊の導きを仰ぎ、その関係がより成熟していくよう責任を持って努めるべきなのです。夫婦関係についても同様です。

結論として、張ダビデ牧師は夫婦に向けて「皆さんが神のご計画の下で結ばれた存在であるという絶対性を忘れないように」と呼びかけます。「その絶対性が崩れ、関係を自分勝手に相対化してしまうとき、私たちには崩壊と破壊が訪れる」と警告します。一方で「その絶対性をしっかりと握り、葛藤のさなかでも聖霊の力を求め、互いを尊重し仕えるとき、結婚は驚くべき喜びと祝福の通路となる」と強調します。


3. 信仰と家庭(Faith & Family)の調和

エペソ5章22節以下を中心にしたこの教えは、現代においても依然として有効です。世界的に家族の解体現象が加速し、個人主義が蔓延する社会にあっては、結婚制度そのものが「旧時代的な束縛」とみなされる見方もあるからです。しかし張ダビデ牧師は、「信仰と家庭(Faith & Family)は決して切り離すことのできない領域」であると語ります。なぜならキリスト教信仰は家庭の中で最も基礎的な形で具現化されるからです。教会共同体も究極的には複数の家庭が集まった姿であるため、家庭が崩れれば教会もまたその機能を失ってしまう、と彼は強調します。

この延長線上で、張ダビデ牧師は結婚式の司式を担当するとき、必ず箴言16章1節と9節を本文として読み上げるといいます。すなわち「人は心に計画を持っていても、その言葉の応えは主から出る」(16:1)、「人は心に自分の道を思い巡らしても、その歩みを導かれるのは主である」(16:9)という箇所です。この御言葉は、結婚が当事者たちが「自発的に選んで結ぶ契約」であると同時に、神がすでに備え、支配しておられることを忘れてはならないという象徴的メッセージです。

結婚の誓約をするとき、互いに「私の意志であなたを配偶者として選びます」と告白します。これは決して誰かに強要されて結ばれる関係ではありません。しかし同時に「なぜこの人が自分の伴侶になったのか?」という問いを掘り下げてみると、とても自分の自由意志だけでは説明しきれない不思議があります。張ダビデ牧師はこの点で、結婚はすなわち私たちの自由意志と神の摂理が交錯する地点だと説きます。だからこそ夫婦が共に歩むうちに葛藤や落胆の瞬間に直面するときでも、「それでも私たちを結ばれた方は神である」という絶対的信仰があれば、最後まであきらめずにやり直す力を得られるのです。

これこそが「神の予定」(Predestination)、「摂理」(Providence)という教理が家庭生活に具体的に適用される場面です。「Pro-vidence」の「Pro」は「前もって」という意味で、「vidence」は「見る(video)」という意味をもつことから、「あらかじめご覧になり備えてくださる神の摂理」という意味が込められています。張ダビデ牧師は、こうした教理的説明が単なる頭の中の知識にとどまらず、実際の生活で大きな慰めと支えになるのだと強調します。結婚生活をしているとよく、「もし他の人と結婚していたらもっと幸せだったのでは?」という疑問を抱きやすいものです。しかしこの問い自体が「神の予定」を軽んじ、「天生縁分」の価値をみずから揺るがしてしまう危険な発想でもあります。

張ダビデ牧師は「結婚生活において最も大切なのは『信家会(信仰のある家庭)』という意識をしっかり守ることだ」と語ります。信仰という土台の上に家庭を築き、その家庭が再び教会共同体へとつながり、互いに励まし合い建て上げる循環構造ができるとき、個人も社会も健康になるというのです。

もうひとつの視点から見ると、「夫は妻の頭である」という表現を誤解して、夫が家庭で一方的に権力を振るうケースが過去にも、そして今でも少なからず存在します。これについて張ダビデ牧師は、「パウロが言う『頭(かしら)』の概念は『主権者』というよりは『仕えるリーダー』というイメージを含んでいる」と指摘します。つまり、頭は体全体をコーディネートし、守り、ときには最前線で犠牲を引き受ける存在です。それにもかかわらず、どの文化圏においても「夫の権威」を誤用して家庭内暴力や心理的虐待を行う例がありますが、それはエペソ5章25節以下にある「夫たちよ、キリストが教会を愛して、ご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」という命令を全面的に拒む行為である、と解釈できるのです。

張ダビデ牧師は、セミナーや説教で「もし教会がキリストの犠牲的愛を否定し、むしろキリストを踏みにじり、蔑み、搾取するならば、それはもはや『教会』と呼べないだろう」とし、「同様に、夫が妻を犠牲にして支配するならば、彼はもはや『頭』ではなく暴君にすぎない」と断じます。頭は体のために存在するのであって、体を搾取する器官ではないからです。したがって、真の信仰に立つ夫婦関係は、夫が妻を支配するのではなく、妻をいとおしみ、守り、自ら身を低くして仕える姿でなければなりません。そして、そのような夫を敬い支え立てることが、妻が示すべき「服従」の真の意味なのです。

結局、エペソ5章22節以下の御言葉は、互いを縛りつけ拘束するための束縛ではなく、真の自由を許す愛の原理を提示しています。なぜなら真の愛は、相手を従属させて支配することで得られる快感ではなく、互いが互いを必要とする「創造的結合」によって得られる充足だからです。創世記1章と2章に記される創造物語を思い起こすとき、神が人を造られた際、「人がひとりでいるのはよくない」として男と女を創造され、この二人を「一体」とされました。これは結婚が決して人間が恣意的に作った制度ではなく、神聖な創造の秩序の中に含まれていることを示唆します。

したがって、現代社会で結婚の意味が崩れ、個人主義が蔓延し、「結婚は単なるオプション」あるいは「結婚は束縛」という認識が強まる現実の中で、教会は一層積極的に聖書的な結婚観を再照明する必要があります。張ダビデ牧師は「結婚は単に二人が愛し合って作る家族ではなく、その愛が神から来たことを告白する人生の舞台だ」と語ります。そしてこの告白こそ、結婚生活の危機の瞬間にいっそう輝きを増すのです。人間の力だけでは到底収拾がつかない感情的混乱や経済的困難、子育ての問題などに直面したとき、「神が私と共におられ、この家庭を導かれる」という信仰が真の希望をもたらします。

さらに、張ダビデ牧師は「家庭が揺らぐほど、教会は夫婦生活の困難を互いに分かち合い、聖書的知恵を共に模索できる場にならなければならない」と強調します。昔は家族の問題を外部に知らせない文化が強かったものの、現代の教会は「互いの重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ6:2)という御言葉に従い、家庭の問題を信仰のうちで共に分かち合い、助け合う共同体であるべきだというのです。言い換えれば、今日の信徒たちには結婚生活に関する教育やカウンセリング、祈りを共に分かち合う機会が増える必要があります。結婚がつらく孤独な闘いではなく、教会が共に重荷を負ってくれるプロセスになれば、家庭は疲れ切ることなく回復のエネルギーを得られるでしょう。

このように信仰と家庭(Faith & Family)は常に噛み合って動く二つの軸です。神を離れて家庭を営めば、結局は人間的な限界や利己心が家庭に入り込み、深刻な葛藤を引き起こすことが少なくありません。逆に家庭が健全に建て上げられなければ、教会共同体もまた分裂や葛藤によって揺さぶられます。だからこそパウロはエペソ書で「聖霊に満たされなさい」と「互いに従い合いなさい」という言及の後、すぐに妻と夫、親と子、しもべと主人の関係を順番に説くのです。これは教理的で抽象的な話ではなく、信仰が日常生活の中でどのように現れるべきかを示す、きわめて具体的な指針といえます。

まとめれば、張ダビデ牧師がエペソ5章22節以下を講解するとき、最も強調するのは次の点です。第一に、人間のすべての関係は、互いを生かし建て上げる相互性のうちでのみ完全になれるということ。第二に、その相互性は聖霊の満たしと神への畏敬心を土台とするときにはじめて可能になるということ。第三に、夫婦関係はキリストと教会の関係を象徴する「神秘的な結合」であり、決して単なる人間同士の契約ではなく、神の摂理と計画のもとにあることを信じる必要があるということ。第四に、夫婦が互いに葛藤を経験するとき、この信仰を手放さず、「天生縁分」という絶対性を見失わなければ、その家庭はむしろいっそう成熟し、満たされるようになるということです。

この教えは、古代の家父長制とは明確に区別されます。キリスト教がもたらした結婚観は、夫と妻が「同じ人間的尊厳をもつ存在」として互いを思いやり守り合うように、初めて革新的な道を開いたものです。社会・文化的状況は今も変わり続けていますが、人間の根源的問題――すなわち利己心、孤立、不和、欲望など――は変わりません。だからこそエペソ5章22節以下のメッセージは今なお生きており、張ダビデ牧師の説教や講演を通じて現代人にも力強い訴求力を持つのです。

最後に、張ダビデ牧師は信徒たちにこう勧めます。「夫婦として共に生きる中で、愛だけでは足りないと感じる瞬間が必ず訪れます。そのときこそ『私たちの出会いの背後に神がいらっしゃる』という事実をつかんでください。そして『私が先に相手を敬い、私が先に相手を愛そう』と決意してください。その決意の上に聖霊が臨まれるとき、私たちの家庭は天のかたちをもつようになります。生涯、互いの足を洗い合い、互いに天国の喜びを味わわせる祝福された夫婦として歩んでいってほしいと願います。」

パウロがこれほどまでに強調したのは、キリストと教会の関係が単なる神学的・抽象的な領域ではなく、私たちの日常の家庭の中で生き生きと動かなければならないという点です。そして張ダビデ牧師の解説も、この核心を外していません。愛は、互いに向き合う関係、互いに先んじてへりくだり仕え合う関係の中でこそ完成されるというメッセージ――それこそがエペソ5章22節以下に関する張ダビデ牧師の教えであり、現代の教会に対する重要な勧告として残り続けています。

義人はいない、一人もいない――張ダビデ牧師

1. ユダヤ人の特権と神の真実性

ローマ書3章1~2節は「それでは、ユダヤ人のすぐれているところは何か。また割礼の益は何か」(口語訳)という問いから始まります。パウロはここで即座に「それはあらゆる点において大きいのです。まず第一に、彼らは神の言葉を委ねられたのです」(新改訳)と答えます。つまり、ユダヤ人には神の特別な摂理と召しがあり、その核心は「神の言葉を委ねられた」という点にあるのです。旧約時代にイスラエルがその言葉を保持・伝承してきたからこそ、今日の私たちクリスチャンもその伝統を受け継ぎ、聖書を尊んでいるわけです。

これに関連して張ダビデ牧師は、次のように強調します。

「神は人類救いの大いなるご計画を成就される過程で、特定の民族を選び、彼らに御言葉を託されました。それこそがユダヤ人の特権であり使命でした。今日の教会が聖書を大切にし、そこから神の救いのご計画と愛を見いだし、それを世に伝える義務を負っているのも、同じ流れの中に位置づけられます。」

実際、パウロはローマ書9章でユダヤ人の特権をいくつか列挙しています。すなわち、イスラエルの民には「子とされること」「栄光」「契約」「律法の制定」「礼拝」「約束」、そして何より「キリストが肉によってお生まれになった」という栄光ある誇りがある(ローマ9:4-5)。したがってパウロは「ユダヤ人が無条件に排除される存在ではない」と示唆し、ただ彼らがその義務に見合わない生き方をし、メシアを受け入れなかったために問題が生じたのだと指摘します。この論理はパウロのユダヤ教的背景から大きく逸脱していませんが、同時にすべての民族に開かれた福音の門を強調する点では革命的です。

それでは、「ユダヤ人の不従順が神の計画の失敗を意味するのか」という疑問が出てきます。パウロはローマ書3章3~4節できっぱりと言います。「決してそんなことはない。人は皆偽り者であっても、神は真実である」(要旨)。ユダヤ人が信仰に失敗し不従順であったからといって、その「不信」が神の真実を無効化することはないというのです。張ダビデ牧師も、この本文を説教しながら次のように語ります。

「人間はいつでも揺れ動く可能性がありますが、神は決して揺らぐことなく、偽りを行われることもありません。その真実性はどんな人間的失敗によっても取り消されたり、無効化されたりしないのです。」

このようにパウロは、詩篇51篇4節や詩篇100篇5節などの引用を通して、神の善と慈しみがいかに世々に及び、その誠実さが変わらないかを再確認します。「さばきを受けられるとき、あなたが正しいとされるため」(ローマ3:4、口語訳風)という表現は、人が自分の罪を隠して神に反論しようとしても、究極的には神の義があらわされるしかないことを示唆しています。いくら人が「なぜ神はこうなのか。なぜ私たちをこのように造って放っておかれるのか」と非難しても、神の完全さと義は変わらず、最後には勝利を収められるというわけです。

パウロは続く3章5~8節で、この論理をさらに発展させます。ある人々は「私たちの不義がかえって神の義を浮き彫りにするのなら、いっそもっと罪を犯したほうが有益ではないか」とか、「善を成すために悪を行おう」という極端で歪んだ結論に走るかもしれません。パウロはそれに対して「断じてそんなことはない」とはっきり線を引き、そうした形で福音をゆがめて非難する者は、むしろさばきを免れないと述べます。

張ダビデ牧師もまた、次のように説きます。

「神が悪を計画されたとか、意図的に悪を許して善をもたらそうとされた、というような解釈は、神を誤解させることになります。神は悪を願われる方ではなく、人間の自由と愛の関係を重んじられる方です。悪が起きたときにも、それを善へと変える絶対主権をお持ちですが、だからといって『悪自体が神の計画』ということにはならないのです。したがって、悪を行いながら『結局は神がうまくしてくださる』と免罪符を与えてはいけません。」

まとめると、ローマ書3章1~8節の要旨は「ユダヤ人には明らかに特権がある。それは『神の言葉を委ねられた』ことに代表される。しかし、たとえ彼らが信じなかったとしても、それで神の真実が損なわれるわけではない。そして、人間が悪を行うことで神の善をより劇的に示すという理屈をもちだし、悪をさらに行ってよいなどと言うことは誤りである。神は究極の審判者であり、義なるお方なのだ」というパウロの宣言に要約できます。

このテーマは、今日の教会にも同じように適用できると張ダビデ牧師は説きます。たとえ教会が世に対して光と塩の使命を果たせず失敗したとしても、それによって神の権威や真実が損なわれることはありません。ただ私たちは、その失敗を悔い改め、再び神の言葉をしっかりと握らなければなりません。選ばれたイスラエルが聖なる使命を守れなかったとき、彼らは滅亡へと向かってしまいました。同様に、教会も自ら気づかず不従順を繰り返すならば、旧約の歴史に見られるさばきが自分たちには来ないとは言い切れないのです。これこそがローマ書3章の冒頭部分で強調される「特権と責任」の緊張感であり、その緊張の上にパウロは神の絶対的な義と真実性を置いているのです。

したがって第一の小主題として私たちが要約できることは、次のとおりです。

ユダヤ人(イスラエル)が受けた特権は確かにあった。しかしその特権を正しく使えなかったとしても、神の真実は崩れません。人間の不信と不従順は神を無効化することができませんが、その不従順を「救いの過程に必要な段階」または「悪でさえ神が用いられるから好き勝手に罪を犯してよい」というように正当化してはならないということです。このメッセージは、そのまま教会と信徒の信仰にも適用されるのです。

2. 人間の罪と不義に関する誤解

ローマ書3章9~18節で、パウロはさらに一歩進んで「結局すべての人間が罪の支配下にある」という事実を明言します。彼はこれまで1章と2章で異邦人の罪、さらに誇っていたユダヤ人の罪を順に指摘してきました。そして最終的に「それではどうなのか。私たちは彼らよりすぐれているのか。決してそうではない」(ローマ3:9)と語ります。これはユダヤ人に限らず、パウロ自身を含めたすべての人間が、等しく罪の支配下にあることを意味します。

この点について、張ダビデ牧師もたびたび説教で強調しています。

「私たちは他人の罪を見て容易に裁きがちですが、実は自分の内側に潜む罪の根を見て見ぬふりをしたいのです。パウロは罪が異邦人だけにあるのでも、ユダヤ人だけにあるのでもないと教えます。罪はすべての人類が共有する共通の宿命のようなものであり、誰も例外ではあり得ないのです。」

パウロは3章10~18節で有名な「カラズ(charaz)」という手法を用いて、複数の詩篇や預言書の引用を一つにつなげながら、人間の罪を総合的に暴き出します。「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)は伝道者の書7章20節、および詩篇14篇、53篇から引用されています。つまり、人が自らを義とするに足る条件など皆無だという絶対的宣言です。パウロはこれを裏付けるために、旧約の多様な本文を「つなぎ合わせ(カラズ)」引用しています。

人間の罪は主に三つの領域で現れます。

第一は、「思いと心」が神から離れている罪です。パウロは「悟りのある者はいない。神を求める者はいない」(ローマ3:11)と指摘します。これは人間が自分を知恵ある者と思い込み、神を無視する高慢にとらわれていることを意味します。実際、神から離れ罪の本性に従って生きると、思いと心が腐敗し、神を嫌ったり無視したりするまでに至ります。

第二は、「言葉」の罪です。パウロは「彼らの喉は開いた墓であって、その舌で欺きを行い、唇にはまむしの毒があり、口はのろいと苦味に満ちている」(ローマ3:13-14)と言います。これは詩篇に度々見られる表現で、人の言葉がいかに容易に悪意や偽り、のろいに満ちてしまうかを強調するものです。ヤコブの手紙3章も、舌を地獄の火と結びつけて論じるほど、言葉の問題は深刻です。張ダビデ牧師はこの本文を扱う際、

「同じ口で神を賛美しながら、人をのろったり嘘をついたりしているのなら、その舌は開いた墓の臭いと変わらないのです」 と表現します。心に罪が根を張っていれば、舌を通して人を殺す言葉、傷つける言葉、毒舌や偽りが湧き出てくるのです。

第三は、「行動」の罪です。パウロは「彼らの足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨があり、彼らは平和の道を知らなかった」(ローマ3:15-17)と嘆きます。人の心が腐り、言葉に毒があふれれば、最終的には行動にも反映されます。殺人、暴力、紛争、戦争、あらゆる社会的・個人的な腐敗がそこから始まります。もちろんすべての人が極端に殺人まで行くわけではありませんが、根本的には人間の「利己心」「憎しみ」「貪欲」といった思いが積もると、結局は悪が行為として吹き出すのです。

パウロが最後に「彼らの目の前には神を恐れる恐れがない」(ローマ3:18)と宣言するのは、こうしたすべての罪の根源が「不敬虔」、つまり神をないがしろにする高慢にあることを示しています。人間が自分を主人にして生き、神の支配を否定した結果が、罪の現実なのです。このように、罪の支配下にある人間は、自分の力だけでは救いに到達できないとパウロは断言します。ここで張ダビデ牧師は、

「教会の中でも、信仰生活を送っているという理由で、あるいは多少聖書を知っているという理由で、自分は義になったかのように勘違いしやすい。しかしパウロは“義人はいない。一人もいない”と宣言しました。自分が罪人であることを直視してこそ、初めて神の恵みが切実になります」 と力説します。

しかし、人々はここで再び誤解に陥るかもしれません。「すべての人間が罪人であり、神の絶対的な恵みによってのみ救われるのなら、私たちがどのように生きようと関係ないのではないか」という考えです。中には「罪が増せば恵みもいっそう増すではないか」と放縦に向かう人もいます。しかしパウロは前述の3章8節で既に「善を成すために悪を行おうというのか」という問いをあげ、それは断じて論外だと明言しました。張ダビデ牧師も、

「結果的に悪を通して善が表されることはあっても、それが悪を正当化したり美化したりする根拠にはなり得ません」 と繰り返し強調します。ヨセフの例のように、兄たちの悪意ある行動を神が善に変えて救いの大きな計画を成就されたとしても、それが「兄たちの悪行が善意で予め計画されていた」という理屈には決してならないからです。

結論として、パウロが3章9~18節で語る核心は「すべての人間が罪の下にあり、誰も自らを義とすることはできないことを認めなければならない」ということです。これは救い論の出発点です。罪人を罪人と気づかせること、したがって恵みなしには救い得ないとわからせることこそ、福音の第一段階なのです。張ダビデ牧師はこう言います。

「教会がまず教えるべきことは『人間がどれほど罪深いか』ではなく、『人間には救いが切実に必要だ』という事実です。そして罪を罪と認識せずに生きる人に、その罪を自覚させるのが御言葉の役割です。そこから真の悔い改めと救いの門が開かれるのです。」

したがって第二の小主題の要点は、「人間の全的堕落」というテーマを正確に捉え、私たちが皆罪人だとわかったときに初めて、福音の必要性がはっきりするということです。そしてそれを誤解して、「結局罪が多ければ多いほど恵みも大きいから、好き勝手に罪を犯してよい」とか、「悪は神の救いの計画に欠かせない要素だ」と歪曲してはならないのです。神の絶対的な聖さの前に立つとき、すべての人はひざまずくしかない――これがパウロのローマ書の罪論を支える重要な柱であり、張ダビデ牧師が幾度となく説教や講解で繰り返してきた主題でもあります。

3. 律法と罪の自覚、そして救いへの道

ローマ書3章19~20節は、パウロの罪論(3章1~18節)のまとめとして、律法の役割と限界を改めて示します。パウロはこう言います。

「私たちは知っています。律法がいうことは、律法のもとにある人々に対して語られているのです。それはすべての口をふさぎ、全世界が神のさばきに服するようになるためです。なぜなら、律法の行いによってはだれも神の前で義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の自覚がもたらされるのです。」(要旨)

ユダヤ人が誇っていた律法は、実際には彼らを“義”へと導く完全な手段にはなりませんでした。もちろん律法は神が与えた聖なる言葉であり、その中には人類が歩むべき「正しい道」が含まれています。しかし罪によって堕落した人間は、それを完全に守り切ることができないのです。結局、律法は罪を「暴き告発」する役割を果たします。つまり、律法を通して人間は自分がどれほど欠けており、罪人であるかを思い知らされるのです。問題は、律法が単に「自分は守れない」と気づかせるだけでなく、さらに「ではどうすれば罪から救われるのか」という深い必要性を呼び起こす点にあります。

パウロは、律法が担う役割を「聖化のための一つの鏡」とも見ています。もし律法がなかったなら、人間は自分が罪人であることすら自覚しにくかったでしょう。とりわけユダヤ人は「私たちは律法を与えられているから、異邦人より優れている」と主張していましたが、パウロの結論は「律法があっても、それを完全には守れない以上、結局あなたがたも罪人であり、さばきの下に置かれている」ということです。これこそ、人間が律法の行いによっては決して義と認められないという、福音神学の根本的真理として確立されていきます。

張ダビデ牧師も、著書や講解の中で「律法の行いが私たちを救うわけではない」というローマ書のメッセージをしばしば強調します。

「それは律法が良くないという意味ではありません。律法は神の正義と御心を示す大切な啓示ですが、私たちの罪を洗い流し、新しいいのちを与える力までは備えていません。それはイエス・キリストの十字架の血潮だけがなし得ることです。律法は罪を暴き出し、そこからもう一歩進んで『私たちをキリストへ導く養育係(ガラテヤ3:24)』として働くだけなのです。」

3章19~20節は、すぐ後の「信仰による義認」(3章21節以降)へと進む直前の結論部とも言えます。つまり、律法と罪について十分に論じた上で、「それゆえ、信仰によって義とされる道以外に解決はない」という論理的結論へとつなげる部分です。パウロは人間がどうしようもなく「罪の現実」に絶望することを照らし出した後、続く21節以下で、その罪を解決する唯一の道――イエス・キリストの血による義を宣言するのです。

もちろん、この箇所だけを見ると、人間はただ律法の前で口をふさがれ、さばきの恐れに震える存在としか見えません。しかしパウロが伝えたいのは、決して絶望のメッセージではありません。むしろこれは「新しい希望の道」を示す前提です。つまり人間が本当に徹底的に罪人であると悟らなければ、なぜイエス・キリストの十字架が必要なのかを決して理解できないのです。教会がイエス・キリストを伝えるとき、罪とさばきという診断をはっきりと示さないなら、福音自体が説得力を失います。人間の内側深くから「自分は罪人であり、自力では義とされる術がない。律法を知っていてもそれだけでは解決にならない」という自覚が生じてこそ、福音が福音として輝き出すのです。

張ダビデ牧師の説教でも、次のように警鐘が鳴らされています。

「この時代は総じて『罪悪感』や『さばきの恐れ』を軽んじ、本質的な悔い改めや変化がなくても信仰生活ができると考える風潮があります。しかしパウロは、人間の心の奥底に痛ましい覚醒が起こるべきだと強調します。律法はその覚醒を助ける道具なのです。だれも律法によって義を得ることはできませんが、律法を通して自分が罪人であると発見し、ついにはキリストに行き着くなら、それこそ律法の善い役割を真に体験することになります。」

では、それなら律法は不要なのかといえば、パウロはそう言ってはいません。むしろローマ書7章でパウロは「律法そのものは聖であり、正しく、善いもの」(ローマ7:12)と断言します。問題は、私たちの罪深い本性がその律法に耐えられないところにあるのです。律法が人を有罪宣告するため、私たちは「どうしたらよいのか」と言わざるを得なくなり、最終的には自分を否定してキリストの恵みを求めるようになります。これがローマ書の語る福音の秩序なのです。

結局、パウロの論旨によれば、人間が自力で誇れる義の行いは何一つなく、先天的/後天的な罪性によってすべての面で堕落しています。しかしその事実を悟ると、むしろ道が開かれます。キリストの十字架で罪の赦しは完成され、死と復活を通して人類を新しい被造物とする神の救いのご計画がすでに宣言されています。律法を通して「自分は罪人だ」と痛感した者が、十字架の恵みによって「神の与えてくださる義」を着せられ、生まれ変わることができるのです。

張ダビデ牧師は、この点を繰り返し強調します。

「福音は確かに絶望から始まります。しかしその絶望は、私たちを真の希望へと導くための通路です。律法によって明るみに出た罪が私たちに絶望感をもたらし、自力では義になれないことを認めさせ、ついにはイエス様の足もとにひれ伏すようにする。その瞬間こそが、救いへ入る門となるのです。」 「そしてこのメッセージが教会の中で深く響き渡り、すべての信徒が日々悔い改めて再び福音の前に立つならば、教会こそが世のまことの光となり得るでしょう。」

このようにしてローマ書3章1~20節は、「人間に与えられた特権(ユダヤ人にとっては律法と契約、現代の教会でいえば福音と聖霊の臨在かもしれません)」、「それにもかかわらず、すべてが罪の下にあること」、「律法によって罪を知るが、律法の行いだけでは救われないこと」を密接に結びつけた段落です。パウロは続く3章21節以降で、いよいよ人間を義とされる神の驚くべき福音――すなわちイエス・キリストによる義(称義)を明確に解説していきます。しかしその前提として不可欠なのは、まず「罪」を直視することなのです。私たちの内にある「神を求めない心」「神を恐れない高慢」「唇に満ちる悪毒」「不義へと急いでしまう足」など、総体的かつ普遍的な堕落が潜んでいるという事実を先に認めなければなりません。

要するに、第三の小主題の核心は「律法は罪を自覚させるが、行いによっては義を成し得ず、ただキリストの救いが必要である」と宣言する点です。律法の本質的意義は「神の義」を映し出す鏡であり、同時に私たちの心に罪責を呼び起こしてキリストへと導く基準です。イエス・キリストの十字架がなければ、だれ一人本当に義とされることはありません。罪の問題を認める信徒であるなら、常に「私の功績ではなく、ただ神の恵みによる」という告白をもって歩むべきだ、という結論に行き着きます。これこそパウロがローマの教会へ届けたかった福音の流れであり、教会史における多くの説教者たち、そして今日の張ダビデ牧師が繰り返し説いているメッセージなのです。

最終的に、このすべての結論は一つの文に要約できます。

「義人はいない。一人もいない。しかしイエス・キリストにあって、私たちは信仰によって義とされる。」

ローマ書3章1~20節は、その前哨戦として、信仰によって義が与えられる喜びがいかに大きく絶対的なものであるかを体感させるため、まず罪を綿密に見つめさせる場なのです。このパウロの論理構造を理解するなら、福音に対する私たちの感謝と感激はいっそう深まるでしょう。

(ただしパウロは律法を攻撃したり廃棄しようとしているのではなく、律法を完成されたキリストのうちに新しい生活を生きるべきことを前提としています。イエス様ご自身が山上の説教で「わたしが律法や預言者を廃棄するために来たと思ってはならない」(マタイ5:17)とおっしゃった御言葉が、その土台を強固にします。律法は神のご性質と義を示す鏡であり基準ですが、最終的には私たちの罪を告発し、イエスの血潮なくしては誰もその基準を満たせないことを実証する役割を担っているとも言えるでしょう。)

こうしてパウロの核心的メッセージは「すべては罪のうちにあり、律法の行いによっては誰も義を得られないが、キリストのうちには希望がある」というものです。張ダビデ牧師もこの福音の真理を力説し、教会がまず悔い改めとへりくだりへ立ち返り、キリストの恵みのうちにともに生きるとき、初めて世に対して真の光と塩の役割を果たせるのだと強調しています。結局ローマ書3章1~20節は、罪と恵みの鮮明な対比の中で、救いを得るためには必ず罪を直視して悔い改める必要があるという不変の真理を呼び覚ます御言葉なのです。

ローマ書3章1~20節の講解を小主題ごとに区分して整理しました。

1つ目は、ユダヤ人の特権と神の真実性について。

2つ目は、人間が普遍的に抱えている罪性とその誤解。

3つ目は、律法と罪の自覚の関係、そして救いへの道としてのイエス・キリストの必要性を強調しました。

これらすべての結論は「義人はいない。一人もいない。にもかかわらず、神は真実であり、キリストを通して私たちに義をお与えになった」という福音の絶対的な宣言にあります。人はどんな行いによっても神の前で義とされることはできませんが、罪を自覚して立ち返り、イエスのもとに進む道こそが救いの答えであると、ローマ書3章は力強く証ししています。そしてこのメッセージを、現代の教会や信徒がどれほど切実に握るべきかを、歴代の説教者たちと同じように、張ダビデ牧師も繰り返し強調しているのです。

外なる人と内なる人 – 張在亨牧師


全体

エペソ書3章は、使徒パウロが獄中でエペソ教会とすべての聖徒のために捧げた“2回目の祈り”が中心をなしています。1章にも祈りがありますが、3章の祈りはより直接的で、教会共同体と信仰者の「内面的成熟」を明確に示しています。パウロがこの手紙を送った対象は「天と地にあるあらゆる家族(あらゆる民族)」であり、この手紙を通して彼は、父なる神の栄光、聖霊の力、そしてキリストの満ちあふれる愛が、すべての聖徒の「内なる人」を強めてくださるよう切に願っているのです。

張在亨(チャン・ダビデ)牧師は、このエペソ書3章を説教しながら、パウロが伝えようとした「キリストの愛」と「神の満ちあふれ」を、教会共同体と個人の信仰者にとってどれほど重要であるかを強調します。また当時のエペソ教会が直面していた挑戦や彼らの霊的状態(患難、偽りの教えなど)を説明し、なぜパウロが「落胆しないように」と勧めたのか、神学的・霊的観点から解き明かします。

本稿では、その説教内容を5つのテーマに分けて整理します。すなわち、愛の本質を探り、患難の中の希望を確かめ、内なる人と霊的成熟を論じ、教会共同体と愛の実践を提示し、最後に神の満ちあふれと人生の完成に至る道を考察します。以下の各テーマでは、張在亨牧師の説教の核心と、該当本文(エペソ書3章14~21節、および関連する参考箇所)の神学的解説を詳しく扱います。説教の途中で引用された聖書箇所(コリント第二4~5章、黙示録2章、ガラテヤ書、コロサイ書など)は、パウロ書簡および新約の多様なテクストが互いに関連していることを示すために挙げられています。


1. 愛の本質

エペソ教会の「初めの愛」喪失の背景

エペソ書は、使徒パウロが獄中で記した「獄中書簡」の一つとして知られています。エペソ教会は、パウロが約3年間直接牧会し、基礎を築いた重要な教会でした。また黙示録2章に登場する7つの教会のうち最初の教会として名が挙がっていますが、一時は優れた信仰と労苦、忍耐によって称賛されたにもかかわらず、「初めの愛を捨てた」という叱責も受けています。ここでいう“初めの愛”とは何かについて、張在亨牧師は「教会が設立されたときに燃え上がっていた『キリストの愛』と福音に対する熱情」であると解説します。エペソ教会は、異端や偽りの使徒たちの攻撃を退け、教理を守ることには成功しましたが、激しい戦いの中で肝心の“愛”が冷めてしまったのです。

エペソ書3章に示される愛の調

エペソ書3章14~21節に記された、いわゆる教会のための**「2回目の祈り」**として知られる箇所では、「キリストの愛」が核心的な焦点として浮かび上がります。パウロは、エペソの信徒たちが世の迫害や混乱の只中にあっても「その愛の広さ、長さ、高さ、深さを悟る」ことを願っています。張在亨牧師は、この御言葉を通して「教会が戦いに疲れた時、あるいは偽りの教えや患難によって揺さぶられる時、最も本質へ立ち返らなければならないのが、まさにキリストの愛である」と力説します。この愛はパウロがローマ書8章でも叫んだ「いかなるものも断ち切ることのできない、天にあるのか地にあるのか、どんなものであっても切り離すことのできない愛」であり、これこそ「神の救いの計画の核心」であると語ります。

アガペ(Agape)の愛

ギリシャ語には複数の“愛”を表す言葉がありますが、エペソ書3章と新約で語られる本質的な愛は「アガペ(Agape)」、すなわち「犠牲的・献身的・無条件の愛」です。アガペの愛はキリストの十字架に象徴され、人間が誇りうるいかなる功績や義のゆえではなく、全き恵みによって与えられた「贖いの血」こそがアガペの愛の頂点であると説明できるでしょう。コリント第一13章で語られる「愛がなければ、鳴るだけのどらやかシンバルにすぎない」というくだりも、私たちに「愛がなければ、いかなる信仰的行為も無意味」であることを思い起こさせます。

「愛こそが信仰の焦点」であるという定義

張在亨牧師は次のように結論づけます。「教会がいかに正しい教理を守り、いかに宣教の情熱を燃やしても、結局『愛』を失ってしまえばすべてが無意味になる」。エペソ書3章の祈りの中で「パウロの崇高で深い祈り」が美しく響くのは、「聖徒たちがその愛を知るようになること」を願っているからだという解説が添えられます。最終的に、教会や信仰が究極的に追い求めるべきものは、世俗的な達成ではなく「神の愛」そのものであるという事実を、改めて刻み込むことが、この第一のテーマの核心です。


2. 患難の中の希望

「落胆しないように」というパウロの

エペソ書3章13節でパウロは「あなたがたのために私が受けている数々の患難について、落胆しないでほしい」と勧めます。そして「それはあなたがたの栄光である」と言います。獄中に囚われたパウロ自身も患難の只中でこの手紙を書いており、同時にエペソ教会が直面している霊的・肉体的患難を知っていました。しかし、むしろその患難が「神の栄光となりうる」と説くのです。これは、福音書でイエスが弟子たちに「世では患難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝った」(ヨハネ16:33)と言われた言葉とも通じています。

初代教会と現代教会

張在亨牧師は、説教の中で初代教会全般が抱えていた「患難の状況」を言及します。コリント第二4章8~10節の「四方八方から圧迫されているが行き詰まらず…」という表現が示すように、初代教会の信徒たちの生活は迫害と苦難の連続でした。エペソ教会も偽りの教師たちの挑戦や、都市文化・異教的背景の中で、しばしば落胆しそうになる状況にありました。現代の教会も同じく、世俗化や価値観の衝突、さらには知的・道徳的攻撃に絶えずさらされています。このような時、「なぜ落胆しなくてすむのか」という根拠を見出すことが大切です。

なぜ落胆せずにいられるのか

それは、十字架の力によってパウロが「イエス・キリストの死と復活」に基づき、いかなる患難も救いと愛を断ち切ることはできないと強調しているためです(ローマ8:35~39)。エペソ書3章16節以下で語られる聖霊の内住(内に住んでくださること)は、「その栄光の豊かさに従って、聖霊によって内なる人が力づけられる」という点で、落胆せずにいられる基礎となることを示しています。黙示録2章に見られるように、エペソ教会が偽りの教師たちを見極め、教理を守り、互いを支え合ったように、教会共同体の連帯もまた重要な要因となります。教会は「共同体的」存在であり、決して一人で戦うのではありません。

患難の中でも神に光をす生き方

パウロはコリント第二4章17~18節で「今しばらくの軽い患難は、はるかにまさる永遠の栄光をもたらす」と語ります。患難を栄光へと変えるこの神秘は、十字架においてすでにキリストが苦難と死を「救いの通路」へと変えられた事実から推測することができます。張在亨牧師は説教で「苦難が皆さんの人生を破壊するのではなく、むしろ人生を新しく再定義してくださる神の道具となりうる」と語り、信徒たちを励まします。


3. なる人と的成熟

なる人」と「外なる人」の

エペソ書3章16節には「聖霊によってあなたがたの内なる人を力づけてくださいますように」という言葉があります。パウロは人間を「外なる人」と「内なる人」に区別しますが、コリント第二4章16節にも同じような文脈が見られます。「外なる人は滅びていくが、内なる人は日ごとに新しくされていく」という言葉は、肉体的・世的な生活が外なる人であり、霊的・内面的な存在が内なる人であることを強調しています。これは神のかたち(Imago Dei)に造られた、真の人格を意味します。張在亨牧師は、「信仰者にとって本当に大切なのは『内なる人』であり、結局は肉体は古びて消え去るが、霊は永遠の神の国へと続いていく」と強調します。

なる人がめられる道

エペソ書3章は、内なる人が強められるのは聖霊の力によると語ります。これは「人間的な決心」や「単なる自己管理」で達成されるものではなく、神が与えてくださる霊的な力が支えとなることを告げています。張在亨牧師は「ヤコブ(ヤコボ)が『ラクダのひざ』と呼ばれるほど、ひざまずいて祈る人であった」という伝承を引き合いに出し、内なる人が成長する核心の通路として祈りの生活を挙げます。また御言葉は私たちに霊的な生命力を供給する「糧」となります。愛のうちでの交わりを通して、内なる人の成長は孤立した霊性ではなく、教会共同体の中で互いに助け合い、励まし合う愛によって実現されるという点も強調されます。

外なる人の衰えとなる人の新しさ

パウロはコリント第二4章7節以下で、自分を「土の器」(外なる人)にたとえ、その中にある「宝」(内なる人の信仰、聖霊の内住)を強調しています。土の器は砕かれやすく、環境によって弱くなり得る一方、その内に宿る宝こそが本質を決定づけるという説明です。同様に私たちの外なる人は苦難、病、老化によって衰えることがあっても、内なる人が強められていれば落胆することなく前進していくことができます。

人生の目標としての「なる人」の成長

最終的に、パウロがエペソ教会や天と地にあるすべての聖徒に望むのは「内面的存在の絶えざる成長」であり、これが究極的に神との深い交わりを実現し、愛のうちで完成に至る道であると張在亨牧師は強調します。「教会が主に似るようになる」という言葉は、外面的に立派に見える“目に見える成長”ではなく、「内なる人が聖霊によって日々新たにされる」ことによって測られる、という解説もあわせて提示されます。


4. 教会共同体と愛の実践

エペソ教会と初代教会の模範

黙示録2章に登場するエペソ教会は、パウロから学んだ福音によって「悪い者たちを容認せず、自称使徒たちを試みて見極め」、福音の純粋性を守り抜いた教会でした。しかしその過程で「初めの愛を捨てた」と叱責されてもいます。これは「真理を守ろうとしているうちに、愛が冷えてしまった姿」を映し出しています。張在亨牧師はここで「教理がいくら大切でも、人を扱う態度から愛が抜け落ちれば、それは福音ではなく律法的な硬直さに陥ってしまう」と警告します。

愛の実践はどう可能か

聖霊による一致が重要な土台となります。エペソ書4章3節以下でも「聖霊が結び合わせてくださる一致を熱心に保ちなさい」と勧められ、教会内のすべての職務と賜物はキリストの「一つの体」を建て上げる方向であるべきと語られています。互いに顧み合い、仕え合うことを通して、ヤコブ書2章の「行いのない信仰は死んでいる」という言葉のように、教会共同体の中での愛は具体的な実践として現れます。葛藤や傷を癒す愛は、信徒間の対立や世との摩擦においても、「敵をさえ愛しなさい」(マタイ5章)というイエスの教えを実践しようと努力する時に初めて、教会の真の力が発揮されるという説明が続きます。

世に向かう教会の使命

教会が世の中を変えていく第一の手段は「福音の宣言」です。エペソ教会が周囲の異教文化に耐えつつ福音を伝えたように、現代の教会も人本主義・快楽主義との戦いの中で、福音によって世に仕えるべきです。社会的責任を果たすためには、愛の実践が教会の垣根を越えて、貧しい隣人や疎外されている人々にまで広がっていかなければなりません。これはパウロの「献金の働き」(コリント第二8~9章)や、初代教会の救済活動(使徒2~4章)でも明確に示されています。キリスト者の日常生活においても、家庭や職場、地域社会で“エペソ教会”のように光を放つ必要があると強調されます。愛のない信徒は「塩気を失った塩」も同然だという指摘が付け加えられます。

「初めの愛」の回復と共同体

エペソ書3章の祈りは単に「個人的な恵み」のためだけでなく、「教会共同体全体が愛のうちで一つとなる」ための基盤であることが示されています。パウロは「知識をはるかに超えるキリストの愛」(エペソ3:19)を、聖徒たちが共に悟るようにと願っており、張在亨牧師は「教会が愛に根を下ろしていなければ、初めは有能に見えても、やがて分裂と冷たさによって消えてしまう」と、共同体としての愛の重要性を重ねて強調します。


5. 神のちあふれと人生の完成

神の充plērōma)の

まずエペソ書3章19節、「神の満ちあふれるものすべてをもって、あなたがたを満ちあふれさせてくださるように」との言葉に注目できます。新約において“満ちあふれる”(ギリシャ語plērōma)は「満たされること」を意味します。コロサイ書2章9節でもイエス・キリストについて「神の満ちあふれるすべてが身体となって宿っている」と語られています。張在亨牧師は、この“満ちあふれ”の概念を「神であるイエスがみずからを“空にする(ケノーシス)”かたちでこの地に来られたにもかかわらず、むしろその“空にする”ことによってすべてを満ちあふれさせてくださる」という逆説として解説します。

愛のうちでの完全性

イエスは「天の父のように、あなたがたも完全でありなさい」(マタイ5:48)と言われましたが、パウロはエペソ書3章18~19節で「その愛の広さ、長さ、高さ、深さを悟る」という形で具体化します。愛こそが私たちが神の完全さに倣うことのできる唯一の道である、という解釈が可能です。したがって、「愛のうちで神に似せられていくこと」こそが、信仰生活の究極的な目標だという結論に至ります。

教会とキリストイエスを通した

エペソ書3章21節、「教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が世々限りなくあるように」とあるように、最終的に神は教会とキリストを通して栄光を受けられます。すなわち「目に見えない神」は、「目に見える教会とキリストの姿」を通じて世に現されるのです。現代の教会も「崩れかけている場で光を放つ善き証人となり、愛を実践する共同体」となるならば、それがすなわち「神に栄光を帰す道」として張在亨牧師は説教を結びます。

人生の完成、そして神のご計の成就

パウロが「あなたがたが愛を悟ってその満ちあふれに至るように」と祈るのは、単に教会の成長や形式的な信仰の成熟を目指しているのではなく、「人間に対する神の創造の意図と救いの計画が完全に成し遂げられる」ことを意味すると言えます。愛は「創造の本質」であり、キリストにあって完成された贖いがすべての聖徒の人生を通してさらに豊かに現されるとき、その完成は歴史の中で現実化されていくという解説が可能です。


結論および締めくくり

以上の5つのテーマを通して、エペソ書3章14~21節に関する張在亨牧師の説教の核心を整理してきました。パウロが伝えた福音的・神学的な強調点は、次のように要約できます。

  1. 愛の本質: 教会が回復すべき「初めの愛」、すなわちアガペ的犠牲の愛が信仰の焦点である。
  2. 患難の中の希望: 苦難の中でも落胆しないようにと勧めるが、それは十字架と聖霊の力が信徒を支え、その患難さえも栄光へと変えるというメッセージに集約される。
  3. なる人と的成熟: 外なる人ではなく、日々新たにされる内なる人にこそ真の強さと成長がある。
  4. 教会共同体と愛の実践: 真理を守りつつも、愛を失ってはならず、世に対して福音を宣べ伝え、仕え、広げていくことが求められる。
  5. 神のちあふれと人生の完成: 愛のうちで神の完全さにあずかることが信仰生活の完成であり、それを通して神に栄光が帰される。

これら5つのテーマは、個々の教理や知識にとどまらず、一つの有機的な統合体として、教会と個人の信仰をより深いところへ導く「福音の核心」と言えます。エペソ書3章でパウロが捧げた祈りは、「キリストの愛を知ることができますように」という中心的な願いに帰結しますが、まさにこれこそが教会と聖徒の最優先課題であることを、改めて思い起こさせます。

張在亨牧師は、このような聖書本文の解説を通して、今日の教会が直面している困難や課題の中でも、何よりまず「キリストの愛」を回復し、聖霊の力によって内なる人を強め、互いを顧みる愛の共同体として立たねばならないと教えます。究極的にこの愛が完全に回復するとき、個人と教会は「神の満ちあふれるすべて」をもって満たされ、「代々限りなく」神に栄光を帰す礼拝共同体となるのだ、と宣言するのです。

クリスチャンの家族のための勧め – 張ダビデ牧師

エペソ人への手紙6章における関係の再発見
エペソ人への手紙6章に示されている妻と夫、子どもと親、しもべと主人に関する教えは、張ダビデ牧師が一貫して強調してきた「天国倫理」と深く結びついている。彼は長年にわたり家庭の基礎を築くための関係回復の重要性を説いてきたが、その核心は単なる道徳的勧告ではなく、福音的な洞察にある。すなわち「弱い存在に見える者たちへ先に近づいてこられる神」という視点から、エペソ書でパウロが妻と子ども、しもべにまず勧めている書き方は、単なる「順番が逆転した」表現にとどまらず、弱者を配慮する天国の価値観を示しているというのだ。張ダビデ牧師はこの箇所を解釈する際、家庭や社会、そして教会のあらゆる領域において「力の力学関係」ではなく「聖霊の満たし」を通して互いを建て上げていくことこそが、「千代にわたる祝福」を開く鍵だと力説する。

張ダビデ牧師の説教は主に聖書の本文の流れを追いつつも、時代に即した具体的な適用を示す特徴がある。そのため、エペソ書5章後半から6章へと続く御言葉を「酒に酔わず、むしろ御霊に満たされよ」という教訓と絡めながら解説し、家族共同体や社会生活を改めて見つめ直す。彼は「家庭の基礎は誰なのか」という問いを投げかけ、本来であれば「夫と妻、親と子、主人としもべ」という順序になるはずの上下関係が、「妻と夫、子どもと親、しもべと主人」という順序で提示されている点こそが「天国倫理」であり、「神の国の民に求められる逆説的な世界観」だと語る。そしてそこに「関係の神秘」が隠されており、福音を知る者であれば、深刻に破綻した家族関係や不和の中でも「主にあって」という前提のもとで新たな突破口が開けることを強調する。要するに「主にあって」とはイエス・キリストの力を前提とする文句であり、この御言葉は単なる倫理講義を超えて、実際の生活を変える福音的な約束になるのだという。

張ダビデ牧師がエペソ書6章を通して現代社会へ提示する核心テーマは大きく4つある。第一に、妻と夫の関係に込められた創造の神秘と愛の責任。第二に、子どもと親の関係が示す「尊敬と祝福」の接点。第三に、しもべと主人の関係が示唆する「仕えることと権威」の逆説。そして第四に、聖霊に満たされた生活がどのように日常を変えていくのかという具体的な適用である。彼はこれら4つのテーマを通して、信仰を持つ人々が教会の中だけにとどまるのではなく、家庭や職場、社会全体を「天国の価値観」で変えていく道具であることを繰り返し強調する。「弱い者たちをまず立ち上がらせる主」という視点こそが4つのテーマを貫くメッセージであり、これを見失うならばキリスト教倫理は「他人に迷惑をかけないようにしよう」という世間並みの水準にとどまってしまうと指摘する。ここから先は、この4つのテーマを軸に、張ダビデ牧師の視点と説教内容を連続した流れでまとめていく。小見出しだけ設けて、他の形式的区分はせずに進める。


妻と夫の係に秘められた創造の神秘と愛の責任

張ダビデ牧師はエペソ書5章後半から6章にかけて、パウロが「妻と夫」の関係を取り上げる際、予想外にも「妻」を先に言及している事実に注目する。夫を家庭の代表とみなす伝統的な文化であれば、「まず夫、次に妻」という流れが自然だろう。しかしパウロは、妻に向けての勧告を先に述べた後で、夫について語る。張ダビデ牧師はこれについて「聖書は慣習的な上下関係を聖霊のうちで新たに解釈するよう私たちを招いている」と解説する。世間一般の見方では夫が主導権を握り導くべきだと考えがちだが、福音的な観点から見るならば「強者ではなく弱者に先に語りかけられる」神の神秘が明らかにされているというわけだ。

彼によれば、家庭の葛藤とは結局、夫と妻が互いに仕え合い、尊重し合う原理を見失ったときに生じるものだという。これは創世記2章に表される創造の原理、すなわち「二人が一体となって神のかたちを示すように」という命令が崩れたときに起きる悲劇でもある。ところがエペソ書においてパウロは、この関係を「キリストと教会」にたとえ、夫と妻がそれぞれ相互補完的に役割を果たすよう教えている。張ダビデ牧師は「キリストが教会のためにご自分をささげられたように、夫は妻に献身せよという御言葉と、教会がキリストを敬うように、妻も夫を敬えという御言葉は、コインの裏表のようなもの」だと語る。

しばしば教会の伝統の中で「夫は頭である。妻は従うべし」という本文が、家父長制を正当化するために引用されたこともあるが、張ダビデ牧師は「パウロが妻の抑圧を支持したことは決してない」と指摘する。むしろ「夫は妻のためにいのちまでも惜しまぬほど愛しなさい」というメッセージにこそ、より大きな重みが置かれるべきだというのだ。つまり、妻に向けた「主に仕えるよう従いなさい」という言葉と、夫に向けた「キリストが教会を愛されたように妻を愛しなさい」という言葉は切り離せず、どちらか一方が欠ければ大きな問題が起こる。張ダビデ牧師は「聖霊に目覚めさせられるとき、互いに相手を高め合おうとするようになる。しかし聖霊の力がなければ、一方が過剰に権威を主張したり、もう一方が完全に従うことを担いきれなくなったりする」と述べる。

エペソ書5章33節には「妻も夫を敬え」という句があるが、その前に夫へ求められるのは「自己犠牲的献身」である。張ダビデ牧師はこの原理を「献身的リーダーシップ」と呼び、この犠牲的な愛が除外されたまま「妻は夫に従うべし」という言葉だけを一方的に強調するなら、家庭は崩壊すると警告する。しかし同時に、妻が真実に敬意を示す態度をとるとき、夫はさらに進んで献身しようとする思いを得るという逆説も強調する。たとえば、家庭の経済的困難や子育ての重荷など日常的な葛藤の中で、妻が夫を見下すようになると、夫もまた自ら責任を引き受ける意欲を失っていくというのだ。

「聖霊に満たされよ」という御言葉がなぜ重要なのかについて、張ダビデ牧師は「人間的な資源だけでは、喜んで献身する愛を持続するのは難しい」と説く。人は疲れたり感情的に追い詰められたりすると、誰しも互いを思いやるのが難しくなる。しかし聖霊に満たされると、互いに先に犠牲を払える霊的な力が与えられる。酒は一時的に気分を高揚させることはできても、問題を解決することはできない。一方で聖霊が注がれると、「主の喜びと忍耐、そして思いやり」が供給され、家庭が癒されていくのだという。

張ダビデ牧師が特に言及するもう一つの視点は、「創造時に夕方から始まる」という創世記の表現である。私たちは「朝が一日の始まり」と思い込んでいるが、聖書は「夕があり、朝があった」と語る。彼はこれが伝統的な認識と逆転している概念であり、家庭においても「強者ではなく弱者をまず立て上げる」のが聖書的創造秩序の別の表現だと主張する。「妻に先に語られる」ということは、すなわち「家庭の中で相対的に弱い立場の声に耳を傾ける夫、そして夫を主に仕えるように敬う妻」との相互尊重を通して、神のかたちが回復されることを意味する。これが張ダビデ牧師が言う創造秩序の秘密であり、家庭の愛と責任を同時に体現する道でもある。


子どもと親の係が示す「尊敬と祝福」の接点

張ダビデ牧師は、エペソ書6章1~4節に出てくる子どもと親の関係が「約束のある最初の戒め」という十戒の構造を通して解釈できると述べる。「子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい。これは正しいことです」という節で、まず注目すべきは「主にあって」という前提だ。これは単なる条件文ではなく、福音を知る者たちに向けられた根本的宣言だと彼は主張する。世の中には暴力的だったり無責任な親も多いが、「主にあって」とはイエス・キリストの力を前提としている。信仰のない家庭なら「親に従いなさい」という言葉は不可能に聞こえるかもしれないが、信仰者には「主にあって」という土台があるというわけだ。

エペソ書6章2節は「あなたの父と母を敬え。これは約束を伴う最初の戒めです」と語る。張ダビデ牧師は、十戒の中で「親を敬え」が、神への戒め(最初の4つの戒め)と隣人への戒め(後半の6つの戒め)をつなぐ重要な架け橋になっていると見る。すなわち「親を敬う」ことこそ、神と隣人を結びつける出発点だというのだ。彼は急激な変化を経験する韓国社会において「親を敬う」という意識が徐々に薄れる現状を憂慮しつつも、教会共同体こそがこれを回復する上で重要な役割を担わねばならないと強調する。「壊れた家庭の中で虐待を受けてきた子どもでさえ、主にあって新たな『父なる神』を発見するとき、赦しと和解が可能になる」と彼は主張する。

さらに張ダビデ牧師は、続く6章3節「それはあなたがうまくいき、この地で長く生きるためです」という祝福を単純化して受け取らないよう注意を促す。「親に尽くせば長生きする」という皮相的な解釈ではなく、「敬う」という概念が「上に差し上げる」行為であることを強調する。彼はよく引用する逸話として、孫娘がアイスクリームを一つだけ買って祖母に差し出したところ、同居の子どもが「ママはなぜおばあちゃんばかり好きなの?」と悲しげに言った例を挙げる。しかしその祖母は、申し訳なさよりも「賢いわね」と言って受け取った。張ダビデ牧師はこの情景から「敬うとは、上におささげする実践」であり、それを目撃した次の世代がまた敬うことで善循環が生まれるのだと解説する。

またマルコの福音書7章でイエス様が「コルバン」の伝統を批判される場面を引用し、「親に差し上げるものをすべて神様に捧げたからもう十分だ」と主張する形式的な態度を指摘する。イエス様は「神の言葉をないがしろにしてはならない」と厳かにおっしゃったが、それはすなわち信仰に熱心だからといって親への敬いをおろそかにすることは正当化されないという意味である。張ダビデ牧師は教会がこうした歪んだ熱心さを警戒する必要があると説き、「愛こそすべての関係を回復する」という福音の本質を強調する。その愛は「主にあって」流れ出る力であり、「親を敬う」という行為は単なる文化的な美徳ではなく、「福音へとつながる命令」だと解釈するのだ。

エペソ書6章4節「父たちよ、子どもを怒らせてはなりません。むしろ主の教育と訓戒によって育てなさい」という御言葉に関して、張ダビデ牧師は「父たち(親たち)」にまず警告が与えられている点に注目する。これは親が子どもの心をないがしろにして、家父長的な権威ばかりを振りかざすことを防ぐための指針だという。現実には多くの子どもたちが、父親を不快で怖い存在と感じてしまいやすいが、福音のうちにある「父」とは子どもを尊重し、主が与えられた命として向き合うものだ。「主の教育と訓戒」とは世俗的な知識だけではなく、キリストの犠牲と愛を前提とした「厳しさがありつつも包み込む養育」を意味する。

張ダビデ牧師は「子どもは親を敬い従うべきだが、それだからといって親に子どもを抑圧する権利が与えられるわけではない」とまとめる。そしてこの関係を「神なる父と私たちの関係」になぞらえ、「怒らせない」とは子どもの感情や個性を尊重し、傷つけないように努める態度であると説く。また「主の教育と訓戒によって育てる」とは、無条件に放任するのではなく、キリストの愛を土台に導きつつ、常に福音が流れ出るよう助ける姿勢を指すという。

結局、エペソ書6章にある子どもと親の関係は、家庭が「天国の基礎単位」であることを改めて思い起こさせる。教会や学校、そして家庭という教育の三角構造の中心には家庭がある。家庭が崩れれば、教会も社会も揺らがざるを得ない。そして「主にあって親を敬う子ども」と「子どもを怒らせない親」という二つの軸がしっかりと据えられて初めて、健全な基盤が整うというのが張ダビデ牧師の主張だ。彼は家庭の崩壊がいかに多いかを十分知っているため、福音の力によってその裂け目が埋められると力説する。教会は「傷ついた子どもや混乱する親にとって避難所となり、彼らを福音によって癒やす責任がある」というのである。


しもべと主人の係が時代を超えて示す「仕えることと威」の逆

エペソ書6章5節以下の、しもべと主人の関係は、今日では多くの国で奴隷制度が廃止されているため、直接適用しづらいと思われがちだ。しかし張ダビデ牧師は当時のパウロの時代を踏まえつつも、この御言葉が21世紀においても職場や社会的弱者と強者の関係を貫く原理を示していると語る。ここでもパウロは「主人」ではなく「しもべ」に向かってまず言葉をかける。伝統的な見方なら、権力を持つ「主人」にこそ勧めるのが先だろうが、福音は全く逆の動きを見せるというわけだ。

張ダビデ牧師は「これこそが福音の神秘であり、天国倫理だ」と言う。世の中なら権力者にへつらったり、おそるおそる提言するのが常識だが、福音の方向は「しもべたちよ」と呼びかけ、「恐れおののいて真心をもって肉体の主人に従うことを、キリストに仕えるようにせよ」と勧める。これはしもべが世間では低い地位に置かれていても、「神の国」においては決して価値が劣っているわけではなく、神は「うわべだけのごまかしや人を喜ばせようとする動機ではなく、真実な仕え方」を尊く見ておられることを示している。

彼はこれを「神の前にある動機」という表現で度々解き明かす。職場や組織の中で信徒が働く際、表面上は取り繕っていても、内心では誠実に取り組んでいないなら、その心はすでに神の前で純粋とは言えない。一方で、つまらない仕事に思えるものでも「主に仕えるように」取り組むなら、それは神に栄光をもたらす行為となる。「しもべであろうと自由人であろうと、善を行えば主から報いを受ける」(6:8)という御言葉も、この原則を裏づけている。張ダビデ牧師は「聖書は『善を行うなら神が報いてくださる』という報いの信仰を決して否定していない。この報いが世俗的な成功や物質的な豊かさを意味しない場合もあるかもしれないが、『天における尊厳』や『霊的祝福』は必ず伴うのだ」と説く。

そして6章9節「主人たちよ、あなたがたも同じことを彼らに行い、脅しをやめなさい」という命令が、どれほど驚くべきものであったかを語る。当時のローマ法のもとでは、奴隷は主人の財産であり、主人はしもべの命すら左右する権限を持っていた。しかしパウロは「外見で人を区別されない神」について言及し、しもべも主人も同じ「天におられる主人」のもとにいると教える。張ダビデ牧師は「パウロが奴隷制度をただちに廃止しなかったために、教会が奴隷制度を黙認した」という誤解があるが、福音がしもべと主人を兄弟となし、結果的に制度そのものを内側から崩していく原動力を提供したことはピレモン書を通じても確認できると解説する。

張ダビデ牧師は現代社会でも、誰もが「しもべ」や「主人」の立場を経験すると言う。ある組織では上役かもしれないが、別の場面では誰かの指示を受ける立場に回ることもある。重要なのは、聖霊のうちで常に「主に仕えるように」働き、「脅し」をやめることだ。世の権威や権力は永遠ではなく、結局はみな神の前に対等な存在なのである。だからこそ「主人」になった者は「仕えるリーダーシップ」を実践し、「しもべ」の位置にいる者は「人ではなく神を見つめる姿勢」を持続すべきだと張ダビデ牧師は強調する。


たされる生活が家庭と社える具体的適用

張ダビデ牧師の説教は最終的に、「酒に酔ってはいけません。むしろ御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)という御言葉と結びつく。妻と夫、子どもと親、しもべと主人の関係に決定的な転換を起こす鍵は、「聖霊の内住」なのだと。彼は「恐れや心配、怒り、傷のただ中で先に愛する力は、ただ聖霊が臨まれるときに生まれる」と繰り返し語る。そうして聖霊に満たされた個人が、家庭や教会や職場に善い影響を流し込んでいくのである。

もちろん教会の中にも葛藤や傷が存在しうる。張ダビデ牧師は「特に壊れた家庭の子どもたちが教会に多く集まってくる。教会は彼らの傷をいやし、真の『父なる神』を体験させる大きな責任を負っている」と語る。そのためには教会こそがまず「天国倫理」を実践する必要がある。教会の指導者たちも「脅し」をやめ、外面的な飾りよりも仕える姿勢を優先し、親子も互いに受けとめ合う態度を学ぶべきだ。家庭においても同様に、親が聖霊のうちでまず悔い改め、夫が妻に献身するとき、妻は彼を敬い始める。そうして「順序の逆転」と「愛による献身」が進行するとき、ようやく家庭が建て上げられていくと力説する。

それでは聖霊に満たされる状態はどうすれば保てるのか。張ダビデ牧師は、御言葉の黙想と祈りを通じて日々自分を省みる習慣が重要だと説く。エペソ書でパウロが「新しい人を身に着よ」と勧めたように、私たちの魂は日々罪を悔い改め、聖霊の力を求めなければならない。また、賛美と感謝に満ちた礼拝共同体に属することも必須だと見る。共に集い聖霊を求めて賛美するとき、「キリストのからだ」として一つとなって働かれる聖霊の喜びを経験できるからである。そうすることで個人の弱さを超えて、互いに「主に仕えるように」接する、いわゆる「神の国の先取り」を教会の中で実践できるという。

張ダビデ牧師は、教会生活に熱心なあまり家族を顧みない「行き違った熱心さ」を警戒する。これは先に触れた「コルバン」の概念ともつながる問題だ。すなわち「自分は神に献身している」と言い訳しながら親や家族をないがしろにする態度は福音の精神ではなく、真の献身であればむしろまず家庭から気を配るよう導かれるというのである。彼は多くの実例を示し、「家庭が崩壊したまま教会奉仕ばかり熱心にこなせば、世の人は教会をどう見るだろうか」と問いかける。だからこそ張ダビデ牧師は「家庭がどれほど困難でも、親や配偶者をないがしろにせず、可能な限り愛と敬意を実践しながら聖霊の助けを求めなさい。そうすれば神が道を開いてくださる」と励ます。

結局、エペソ書6章に出てくる3つの対の関係、すなわち妻と夫、親と子ども、しもべと主人は、「聖霊の満たしが現場でどのように機能するか」を示す事例にほかならない。張ダビデ牧師が繰り返し述べるように、福音の逆説をつかむなら私たちの生活の場が変わっていく。世は強者を優先するが、エペソ書6章と福音は「弱者に先に声をかけることで、強者を変えていく」という道を提示する。妻が先、子どもが先、しもべが先に登場し、彼らに先に勧められている順序こそが「天国の順序」なのである。

張ダビデ牧師は、だからといって「弱者のやるせなさをそのまま放っておけ」という意味ではないと付言する。むしろ「不正は正されねばならないが、福音的な解決策はいつでも『まず自分に聞こえてくる神の言葉に従う姿勢』から始まる」というのだ。妻でも子どもでもしもべでも、下位の階層に置かれているとみなされる者たちが「主にあって」従順や敬意を実践するとき、その先行する善を通して「天におられる主人」ご自身が報いてくださるという信仰がパウロ書簡の骨子である。同時に夫・親・主人のように「上」の立場にある者たちは、「脅しをやめよ」という警告に等しく対面することになる。

福音はこのように人間社会の上下関係を揺さぶりながら、その揺さぶりの中で「より高く、完全な神の愛と正義」が明かしされる。張ダビデ牧師は「キリストの十字架が示したのが、まさにこの逆説的な勝利」であるという。イエスはローマ帝国を武力で転覆させる代わりに、十字架を負って罪の代価を取り除き、永遠の命を開かれた。これは世の常識とは正反対の方法であり、エペソ書6章の倫理が根を張っている土台でもある。

彼は教会がエペソ書6章のメッセージを誤って理解し、「かつての奴隷制度と家父長的権威を擁護した」という過ちを繰り返してはならないと警告する。福音の真の力はこうした歪みを超えて、愛と尊重と仕え合いを実践する共同体へと私たちを招くのである。現代社会でも、法律や制度は平等を謳ってはいても、実際には職場のパワハラや家庭内暴力が後を絶たない。教会内においても「聖職者」と「平信徒」の権威が悪用される問題が生じることがある。そのようなとき、教会はどちらかの側を無条件に支持するのでなく、「互いに兄弟になれ」という福音的な根本メッセージを宣言し、それを実行に移せるよう制度的・霊的な手立てを講じねばならない。また、究極的な目標は「対立」ではなく「あがないと平和」にあることを忘れてはならないと、張ダビデ牧師は付け加える。

まとめとして、張ダビデ牧師がエペソ書6章を解説する際に提示する四重のメッセージは、一貫した筋を持っている。第一に、妻と夫の関係で「先に土台を築く者」として妻が登場するという逆転的思考は、福音の逆説的な順序を示す。第二に、子どもと親の関係で「主にあって敬いなさい」という言葉は、約束のある最初の戒めとして千代にわたる祝福の始まりを開く。第三に、しもべと主人の関係で「しもべに先に語り、主人には脅しをやめよと命ずる」ことは、外面的な地位ではなく、神の前での心のありようがより重要であることを思い起こさせる。第四に、これらすべてを実行に移す原動力が「酒に酔わずに聖霊に満たされよ」という勧めであり、聖霊の満たしこそが家庭と社会を癒やす鍵であるということだ。

張ダビデ牧師はここで「この奥義は大きい」という表現をよく引用する。この「奥義」とは決して隠された神秘ではなく、十字架が示した「人間の理を超えた神の逆説」のことだ。十字架と同じように、福音も外見的には世の観念にそぐわないが、その道を通してこそ最も驚くべき神の栄光が現される。妻が先、子どもが先、しもべが先という流れは「強者が先ではない」という神の声を象徴しており、それこそが愛の摂理が実行される方法でもある。現代の教会がこの本文に触れる際、過去の誤りを繰り返さず、「福音に内在する転覆的・癒やしの力」を再発見すべきだというのが、張ダビデ牧師の強い主張である。

彼は説教の終わりにはいつも「この御言葉を握って生活の場へと踏み出してください。私たちは天国の民であり、この地の文化のただ中で聖霊によって生きる者たちです。妻が夫を立て、子どもが親を敬い、しもべが主人に仕えていく中で、主人さえも福音の前に出てくるようにしましょう。これこそ十字架の逆説であり、新しい被造物の生き方です」と勧める。こうした関係の逆転を通して家庭が建て直され、教会が回復し、社会が明るくなり、神の国が拡張されていくのだという。聖霊に満たされた人は、その愛を内にとどめておかず、必ず流し出すものであり、ぶつかる現実においてこそ福音の香りがあらわれるという結論である。

このように、張ダビデ牧師のエペソ書6章メッセージは今日においても驚くほど有効性を持っている。彼はしばしば「聖書は逆さに読むと味わい深い」と冗談めかして言うが、「夫と妻、親と子、主人としもべ」という上下関係を「妻と夫、子どもと親、しもべと主人」という順序で読むことで、聖書の本来の意を正しくつかめるという意味である。見かけ上は平等に見えても、現実には弱者を軽視しがちな現代社会において、教会は「弱者に声をかけてくださる神」を証しする責任がある。十字架が証明したように、その逆説的な愛こそがエペソ書の伝える天国倫理の精髄なのだ。キリストにあっては、もはやユダヤ人もギリシア人も、しもべも自由人も、男も女も区別はなく、私たちは皆兄弟姉妹である。夫と妻、親と子、しもべと主人といった区分は、この地上で互いを支え合い「キリストの犠牲と仕え合い」を学ぶために与えられた位置づけにすぎない。

だからこそ張ダビデ牧師は、エペソ書6章の説教を終えるたびに「主よ、この教えを実際の生活で生きさせてください」と祈り、礼拝が終わった後も「家庭や職場へと連なる礼拝者であれ」と促す。礼拝の現場とはまさしく家庭や職場であり、そこから天国の秩序が新たに流れ始めるというのだ。最終的に、彼が何百回、何千回説教をしても変わることのない結論は、「聖霊なしにはこの道を歩めないが、聖霊と共に歩むならば家庭も社会も魂も変えられる」ということである。そしてこれこそが、エペソ書6章が私たちに与えている強力な挑戦であり慰めだと、彼はいつも説教の締めくくりに語るのである。