十字架の愛 – 張ダビデ牧師

本稿は、ヨハネの福音書13章1節の「過越の祭りの前に、イエスはこの世を去って父のみもとに行く時が来たことを悟り、この世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛された」という御言葉を中心に、苦難と愛に対する聖書的な洞察を整理したものである。特に四旬節(受難節)の期間に私たちが深く黙想すべきイエス・キリストの苦難、そしてその苦難の真の意味がイエス・キリストの「最後まで愛される」ご意志にあるという事実を軸に展開している。本文で提示された詩篇119篇、ローマ書5章、ピリピ書1章と3章、コロサイ書1章、テモテ第二1章と2章、ペテロ第一2章と4章の節々を共に考察しながら、キリストの苦難は単なる「呪いや不幸」ではなく「愛へと導く道」であることを強調している。また、弟子たちが最後の晩餐の席で依然として世的価値観にとらわれ、「誰がより偉いか」を争う姿にもかかわらず、イエス様が彼らを「最後まで愛された」ことを示されることで、私たちも仕え合い、へりくだる生き方を通して永遠の命と復活の栄光を味わうことができると教えておられる。このような文脈の中で張ダビデ牧師は、イエス・キリストの苦難を単に悲しみや人間的な同情の対象とするのではなく、その苦難に込められた驚くべき仕えと愛の本質を悟り、実践することこそ真の弟子道の核心であると力説する。以下、「第一に『苦難の意味とキリストの愛』、第二に『最後まで愛されることの実践的適用』」という流れで整理したい。


Ⅰ. 苦難の意味とキリストの愛

イエス様が受けられた苦難について、私たちは四旬節の期間に特に深く黙想するようになる。張ダビデ牧師によれば、四旬節は単に悲しく痛ましいイエスの受難を見つめる時間ではなく、その苦難に込められた超越的かつ永遠の神の愛を悟る機会であると強調している。ヨハネの福音書13章に記されているイエス様の最後の晩餐は、キリストの十字架へ向かう歩みが本格的に始まる場面である。ヨハネはイエス様が「この世にいる自分の者たちを愛して、最後まで愛された」と証言する(ヨハネ13:1)。ここで「最後まで愛された」という言葉は、時間的制限や条件的制約のない「完全な愛」を意味し、その愛がまさしく十字架へと続く道そのものであることを示している。

張ダビデ牧師の教えによれば、私たちが一般的に「苦難」と呼ぶものは、人間的な視点から見ると「呪い」や「つらい試練」のように思えるかもしれない。しかしイエス様の視点から見れば、それは人々に対する「愛の決断」である。イエス様は苦難を避けず、十字架の道を選択されることによって、人間の罪と限界を背負われた。そしてその過程を通して、神の愛、すなわち世に対する救いのご意志を明らかにされたのである。聖書はこの苦難が私たちにとって益であると語る。詩篇119篇67節では「苦しみに会う前には私は誤った道を行きましたが、今はあなたの御言葉を守ります」と告白し、71節では「苦しみに会ったことは私にとって益でした。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」と語る。つまり「苦難」という過程は、神の御言葉が真に何であるかを悟るための通路として働くというのである。

張ダビデ牧師はローマ書5章3〜4節でパウロが語る「患難をも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み、忍耐が練達を生み、練達が希望を生むと知っているからです」という一節も同じ文脈で解説する。神の愛をより深く知る過程は、人間的な苦難を通り抜けるときに、より完全に起こる。キリストの苦難にあずかるということは、単に痛みを直面する行為を指すのではなく、その苦難の中に込められたイエス様の仕えと恵み、そして罪人に対する赦しの深みを悟ることを意味する。ピリピ書1章29節には「キリストのために、あなたがたに与えられた恵みは、彼を信じることだけでなく、彼のために苦難を受けることでもあるのです」とある。そこには「キリストの苦難」がむしろ恵みの通路であるという逆説が含まれている。

さらにピリピ書3章10〜11節でパウロが「私はキリストとその復活の力とにあずかり、その苦難にもあずかって、彼の死のさまに倣い、何とかして死人の中からの復活に達したいのです」と告白しているように、苦難は単に目的なく与えられる現象ではなく、キリストの「復活の力」にあずかるための聖なる道であることを示している。苦難は、キリストが十字架で示されたへりくだりと仕え、そしてご自分を徹底的にささげられた愛を倣う機会である。コロサイ書1章24節でパウロは「今、私はあなたがたのために受ける苦しみを喜びとし、キリストの残された苦難を、その体なる教会のために、私の肉体に満たしています」と語り、苦難が教会を建て上げ、共同体に仕える手段になり得ることを示している。これは張ダビデ牧師が強調する「苦難は一人で受けるものではなく、愛の拡張であり、仕えの機会である」との言葉と通じる。

テモテ第二の手紙でもパウロは繰り返し、福音と共に苦難を受けるよう勧めている(Ⅱテモテ1:8、2:3)。この勧めの背景には、キリストの苦難がすでに「神の愛」という肯定的な意味を持つという神学的理解がある。ゆえに弟子たちは恐れの中で苦難を避けようとするだけではなく、その中に込められた主の道をたどるべきだというわけである。ペテロ第一2章20〜21節と4章13節でも、善を行って苦しみを受けるのは神の御前に麗しいことであり、キリストの苦難にあずかることは、やがて主が栄光のうちに現れるとき、大きな喜びと楽しみに結びつくと語っている。張ダビデ牧師はこれを「苦難はキリスト者の人生に必然であり、最終的には復活の栄光にあずからせてくれる道である」と解説する。

実際、このような教えを頭で理解することと、現実の生活で適用することには大きな違いがある。聖書が苦難について繰り返し語っているにもかかわらず、今日、多くの教会と信徒たちは苦難に対する正しい理解を持たずにいる場合が多い。張ダビデ牧師は「苦難なしに栄光はない」という真理をしばしば言及する。主が十字架で成し遂げられた救いのみわざは、まさにその苦難自体が罪人に対する神の愛を最も力強く証言するからだというのである。したがって教会が苦難をあまりにも安易に呪いや罰だと解釈してしまうと、福音の核心である「キリストの最後までの愛」を取り逃してしまう。本文に示されているイエス様の姿、すなわち「ご自分の者たちを最後まで愛される」その姿の中には、「苦難をいとわず受け入れるご意思」が確かに表れている。

張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章1節の「この世にいる自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という表現について、ここで言う「最後まで」には時間的限界がなく(「最後まで」=文字通り最後の瞬間まで)、また犠牲や献身に制約がないと説き明かす。つまり、弟子たちが失敗し、イエス様を見捨てて逃げ去り、さらには否認してしまっても、イエス様の愛は止むことなく彼らへ向かっていた。その愛の頂点が十字架の犠牲であり、その犠牲こそイエス様の苦難が呪いではなく愛であることを証明する。苦難は最終的に「愛のために払うべき代価」であることを私たちに示しているのだ。

ヨハネの福音書13章を読むとき、最初の節からすでにイエス様のこのような決断が宣言されている。「過越の祭りの前に、イエスはこの世を去って父のみもとに行く時が来たことを悟り…」という表現は、イエス様が近づいてくる痛ましい死をはっきりと認識しておられたことを伝える。そしてその死は十字架という残酷な刑罰を伴う。しかしそれにもかかわらず、イエス様はこの世にいる自分の者たちを「最後まで愛する」道を選ばれた。それは人間的な観点からは理解し難い超越的な愛である。張ダビデ牧師はこの点について、「人が真に誰かを愛するなら、その愛が苦難を招くことであってもいとわない。なぜなら、愛というものは本来、相手のための犠牲と献身を必然的に含むものだからだ」と説明する。こうしてイエス様の苦難は、ご自分を低くしてしもべの姿で生きられた主の愛を最も具体的に示す出来事なのである。

さらにマタイの福音書20章やルカの福音書22章に記されている弟子たちの争いの場面を見ると、イエス様が最後まで愛してくださったにもかかわらず、弟子たちは依然として世俗的な価値観、すなわち「誰がより偉いか、誰がより高い地位を得るか」に固執していたことがわかる。特にマタイ20章20〜27節あたりでは、イエス様は世の支配者たちが権勢を振るい、高くなることを目指すのに対して、主の国は全く逆であると明言なさる。張ダビデ牧師はこの箇所に注目し、「世の支配者は権威を誇り高くなることにこそ価値を置くが、主の国ではその逆であり、真の弟子であるならば低いところに身を置いて兄弟に仕えることを栄光と考え、へりくだる心で互いに接すべきだ」と強調する。

イエス様が最後の晩餐でお示しになった「足を洗う」出来事(ヨハネ13:4〜5)は、まさにこのような教えを生きた形で実践なさった現場である。当時の弟子たちは、誰一人として先にしもべの役割を引き受けようとはしなかった。しかしイエス様はご自分で上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻き、水をたらいにくんで弟子たちの足を洗われる。これは当時の中東地域の風習において、しもべが行う最も低い身分の仕事であった。ところが、誰も進んで仲間の足を洗ったり、愛の仕えを実践しようとしなかった。そこで主御自身が手本を示されることで、愛は決して言葉だけではなく、「仕えをもって立証」されるべきものであると弟子たちに教えられたのである。張ダビデ牧師は「イエス様の最後の晩餐は、人類のための救いがまもなく成し遂げられようとする切迫した瞬間だった。しかし主は弟子たちに『誰がより偉いか』ではなく、『誰が本当にしもべのように仕えるか』が大切なのだということを、みずからの行動で示された」と説明する。

ヨハネの福音書13章に描かれているイエス様の苦難の始まりは、ただ痛ましい場面ではなく、「最後まで愛してくださる神」を示す劇的な舞台である。イエス様はその愛を言葉だけで宣言されるのではなく、自ら低い立場を選ばれた。それが十字架へ向かう道の本質である。イエス様が十字架を喜んで負われたことによって、罪人である私たちが永遠の命を得、キリストの愛が真実で変わらないものであることが歴史の中に明確に刻まれた。このような文脈の中で張ダビデ牧師は、キリスト者の生とは「苦難の中にあっても愛を手放さないこと」であり、「仕えによってその愛を証しすること」であると教える。十字架は苦難であるが、同時に愛でもある。そしてその愛から湧き出る命は「永遠の命」だというのである。


Ⅱ. 「最後まで愛される」ことの実践的適用

ここまで見てきたように、キリストの苦難は愛の頂点であり、十字架はまさに「最後まで愛してくださる神」を示す現場である。張ダビデ牧師は、この聖書のメッセージを今日の教会と信徒たちが日常の生活でどう実践すべきか、その重要性を繰り返し強調する。イエス様が「あなたがたのうちで誰が偉いか」と世俗的な争いをしていた弟子たちに対して、足を洗う仕えをもって応えられたように、私たちも「最後まで愛される生き方」をするためには具体的な適用が必要だからである。

イエス様は弟子たちに「私が主であり師であるのに、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:14)とおっしゃる。つまり、主が示された模範に倣い実践することが弟子であることの印だということだ。ところが、実際の私たちの内面には依然として「誰が偉いか」という比較意識や、高くなりたい欲望、人から仕えられたいという態度が根付いている。張ダビデ牧師は「今日の教会の中にも、名誉欲や権力欲、誇示欲が暗黙のうちに蔓延している。しかし主の御国ではむしろ低くなり、より仕える者が本当に偉大な者なのだ。私たちはこの価値観の急進的転換を経験しなければならない」と語る。

ではどのようにすれば、イエス様の「最後まで愛される」お姿を倣うことができるだろうか。まず、愛とは感情や言葉ではなく、「どんな状況でも諦めず、相手の益のために自分を差し出す意志」であると認識しなければならない。ヨハネの福音書13章のイエス様は、弟子たちが「誰が偉いか」と争い、さらにはこの後イエス様を裏切る者(ヨハネ13:2, 21〜27)がいることをご存知だったにもかかわらず、彼らを最後まで愛された。そこには、愛は相手の反応や善行によって左右されるものではないという事実が示されている。愛はまさに自分が果たすべき「自分の使命」であり、苦難を伴っても担うべき召しなのである。張ダビデ牧師は「愛というものは、相手がそれに値する行動を示さなくても揺るがぬものでなければならない。イエス様が弟子たちや人類に示された愛がまさにそういう愛だ」と説明する。

イエス様が示してくださった愛は「実践的な仕え」として具体化される。足を洗う行為は単に謙遜を誇示するジェスチャーではない。長い一日の労苦を経て砂だらけになった足を洗うことは、きわめて実質的な仕えであった。イエス様は「言葉だけ、心だけ」で愛されたのではなく、実際的な行動によって弟子たちの必要を満たされたのである。これは教会共同体の中で互いの必要を気遣い、家族や隣人に献身的に寄り添い、あるいは生活のさまざまな領域で他者のニーズを察して進んで助ける姿として現れる。張ダビデ牧師は「真の愛は必ず行動を伴う。どんなにもっともらしい言葉を並べても、いざ周囲の人々を助けなければ、それはイエス様の模範に倣う愛とは言えない」と強調する。

特にルカの福音書22章14〜20節を見ると、イエス様が苦難を受ける前に過越の食事を弟子たちと共にすることを切に望まれたと記されている。そしてパンとぶどう酒を弟子たちに分かち与えながら、「これはあなたがたのために与える私のからだ」と言われた。ここには「与える」「差し出す」という強いメッセージが込められている。愛とは「自分を差し出すこと」であり、その差し出しが十字架の上で完成されたということである。そしてイエス様は、この聖餐を行うたびに、ご自身の犠牲的な愛を忘れないようにと私たちに託された。張ダビデ牧師は「私たちが聖餐にあずかるたびに、イエス様が私たちのためにからだを裂き、血を流してくださったその実際の愛を黙想しなければならない。それは単なる儀式ではなく、私たちもそうやって互いに仕えよとの御言葉の前に立つ時間だ」と語る。

こうして教会はイエス様の犠牲を記念する場において、「最後まで愛する生き方」をすべての信徒に勧め、その愛が世へと流れ出るよう奨励しなければならない。もし教会がこの愛を実践せず、イエス様の道に従わないなら、世の人々にとって福音は空虚なスローガンに終わってしまうだろう。実際、弟子たちは初代教会時代、互いの必要を満たし合い、財産を惜しみなく分かち合い(使徒2:44〜45)、迫害や苦難の中でも互いを顧みる姿を示した。それがローマ帝国を変え、福音の力を示す強力な証拠となったのである。張ダビデ牧師は「今日の時代においても、教会が真の愛の実践によって世に神の国を証しする責任がある。そうしてこそ世の人々は『ああ、彼らは本当にイエスの弟子なんだ』と気づくのだ」と強調する。

さらに私たちが周りを見渡すと、「足を洗ってあげるべき」人が本当に多い。貧しい人、病む人、孤立している人、移民の方々、障がいを持つ人など、日常の中で私たちが見過ごしがちな人々がいる。もしイエス様なら、彼らの足を喜んで洗って差し上げたに違いない。ところが私たちは、そのような人々に目を向けながらも、多くの場合「自分のほうが大事」という思いにとらわれて結局は無視したり、「誰かがきっと世話をしてくれるだろう」と後回しにしてしまうことがある。しかし張ダビデ牧師は「イエス様が疎外された人たち、病人や取税人、娼婦、ツァラアト(重い皮膚病)患者たちと共におられ、彼らを癒やし、彼らに近づいていかれたのは決して偶然ではない。彼らに先に近づかれるその姿勢こそ、十字架に込められた愛のあり方なのだ」と解説する。ゆえに教会と信徒は「誰が自分に仕えてくれるのか」ではなく、「自分が誰に仕えるべきか」を模索すべきだというわけである。

「最後まで愛してくださる」イエス様をより深く体験するには、私たちの人生に「終末論的価値観の変化」が必要だという点も大切である。張ダビデ牧師は「新しい天と新しい地、すなわち神の国が到来するということは、かつての価値観とは全く異なる、完全に新しい世界が開かれることを意味する」と語る。そしてイエス様が「後の者が先になり、先の者が後になる」という逆説をお示しになったことこそ、その国の法則であると説き明かす。世の中では上に昇り、より多くの承認を得て他者を支配することが成功とされるが、神の国ではへりくだることによってかえって高い地位に就き、自分を捨てて他者を立てることで真の尊厳を得る世界なのである。ヨハネの福音書13章で弟子たちの足を洗われるイエス様は、まさにこの神の国の秘密を最も具体的に示されている。

苦難をただ恐れとして向き合うのではなく、その中に込められた「愛の神秘」を悟り、私たちに与えられた時と環境の中で最後まで愛し抜くことを実践することが大切である。張ダビデ牧師は「私たちの人生がどんなに苦しく、誰もが私たちを認めず、時には迫害を受けるような状況になっても、『最後まで愛する』生き方を諦めてはならない」と重ねて強調する。なぜなら復活の栄光は、ただ苦難に「耐え忍ぶ」だけでなく、「愛で満たす」ことによって与えられるからだ。イエス様は苦難に直面したとき、弟子たちの裏切りや世の嘲りに直面したとき、ご自分を徹底的に差し出す愛を選ばれた。そしてそれが復活をもたらす力へと結びついた。私たちも同じである。もし愛がなければ苦難はむしろ呪いとなり得るが、愛のうちにある苦難は永遠の命をはらんでいる。

イエス様の苦難は、私たちが一般に考える「受け身の犠牲」や「理不尽な不遇」ではなく、非常に具体的かつ能動的な愛の表現である。キリストが十字架という最も恥ずかしい刑罰を選び取られたのは、人間の罪と限界を超える神の愛の深さを証明するためであった。張ダビデ牧師は「十字架はまったくもって愛である。そして私たちはその愛を宣べ伝え、証しする証人として召されている。しかしその愛をただ言葉で知らせるだけでなく、自分自身の生の中で『最後まで愛してくださるイエス様』に倣わなければならない」と勧める。愛には苦難が伴う。しかしまさにその苦難の中でこそ、私たちは神の恵みを体験し、復活の希望を持つことができる。ゆえに四旬節は、イエス様の苦難を遠くから観照したり、イエス様の痛みに対して単なる同情を抱く時間ではなく、「私たちがどう同じ愛を実践していくのか」を黙想し、決断する時となるべきなのである。

信仰生活を送る中で、私たちはときに教会の中でさえ衝突や傷つきを経験することがある。指導者と信徒の間、あるいは信徒同士の間で、「誰が正しいか」「誰がより認められるべきか」「誰が先に待遇されるべきか」といった問題で争うこともある。しかしイエス様の教えは、このように争う私たちに向かって「あなたがたはしもべになりなさい。互いの足を洗い合う者となりなさい」と語っている。現代においても、この御言葉はそのまま有効である。私たちが互いの足を洗い合い、互いの欠けを包み合い、兄弟姉妹を仕える生き方を通してこそ、教会は世に光と塩となることができる。張ダビデ牧師は「信徒たちが人生のあらゆる領域でしもべの姿をもって献身するとき、はじめて世は教会を見て『ああ、彼らは本当にイエスの弟子たちなんだ!』と知るようになるのだ」と強く語る。これはイエス様が弟子たちの足を洗われた姿が、現代の教会共同体の中でも再現されるべきだという意味である。

愛には必ず犠牲が伴う。他者を生かし建てるには、常に苦難が付きまとう。しかしその苦難は「呪い」ではない。むしろ神がくださる最も大きな贈り物にもなり得る。なぜなら私たちはその苦難を通してイエス様の愛、そして主が私たち一人ひとりに注いでくださる恵みをより深く味わうことができるからだ。私たちが「自分のため、自分の欲のため」に甘受する苦労は、疲弊や消耗感に陥りやすいかもしれない。しかし誰かを愛するために献身する苦難は甘い。イエス様の教えが示すのはまさにそれである。ヨハネの福音書13章に記された「最後まで愛してくださる」主は、その愛のうちに喜びと感謝、そして復活の希望までも含めておられる。張ダビデ牧師はこの福音を伝え続けながら、弟子たちがイエス様のそばで何年も過ごしたにもかかわらず、決して身につかなかった「仕えと愛」を、現代の教会もあまりにも容易に失っていると警告する。そしてこの点を回復しなければ教会が本質を失い、人々に希望を与えられないと力説する。

イエス様が最後の晩餐で示された弟子たちへの態度――彼らが不十分であり、さらにはご自分を見捨てることをご存知であったにもかかわらず「最後まで愛してくださる」姿――こそ教会と信徒たちの究極的な模範である。キリストの苦難は愛の結晶であり、私たちに対する主の犠牲こそ、私たちの永遠の命の土台となる。そして私たちはその愛を単に観念的に覚えるだけでなく、実際の生活の中で足を洗い合う姿、つまりしもべの態度と仕えの行いによって示さなければならない。そのような教会、そのような信徒たちが集まるとき、世は初めて「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人があなたがたは私の弟子であることを知るだろう」(ヨハネ13:35)というイエス様の御言葉が真実であることを目撃するようになるのである。

張ダビデ牧師は、これを「イエス様の十字架、その苦難は最後まで愛そうとされる神のご意志であり、それこそが永遠の命への扉を開かれた出来事だ。だから私たちもこの福音の道を歩むために最後まで愛する人生を選ばなければならない」と述べる。その選択は容易ではない。なぜなら世は絶えず私たちを高ぶりたい欲求や自己中心的な価値観へと引き寄せるからだ。しかし私たちにはすでにイエス様の手本があり、聖霊の助けが与えられている。もし私たちが真実にこの愛にしっかりととどまり、互いにしもべとなることをいとわないならば、教会は再び十字架の力を現し、真の復活の希望を宣言できるであろう。四旬節をはじめとする私たちの日常の中で、イエス様がお示しになったこの苦難と愛を深く黙想し、生活に適用していくことを決断するなら、私たちもまたイエス様に倣い、互いの足を洗い合うことのできる真の弟子となることができる。

「最後まで愛された」(ヨハネ13:1)という宣言は、キリスト者がこの世で歩むべき道が「苦難の道」であると同時に「愛の道」であることを告げる核心的な聖句である。キリストの苦難は痛ましく悲劇的な出来事であるが、同時にそれは人間を生かす神の最も美しいご計画であり、イエス様の自己犠牲的な従順であった。張ダビデ牧師はまさにこの点を、さまざまな説教や著述で強調し続けている。そして苦難をただ避けたり恐れたりするのではなく、その中に込められた神の御心と愛の本質を発見し、同じように従う生き方が重要だと教えている。このように生きるときこそ、私たちは真の復活の力、すなわち新しい命と喜びを経験できるのである。愛のない苦難はただ苦い絶望に変わり得るが、愛に包まれた苦難は不思議な命の門へと私たちを導く。これこそ四旬節に私たちが深く思い起こすべき最も重要な霊的メッセージであろう。

まず、イエス様が経験された苦難の意味が単なる人間的な痛みを超えた、神の限りない愛であることを悟らなければならない。その愛を「最後まで」注がれたイエス様のご様子から、苦難が呪いではなく永遠の命へ通じる道であることがはっきりと示される。そしてその苦難にあずかることこそ、私たちに与えられた恵みであり祝福である。次に、キリストの苦難と愛は、具体的な実践を通して今日の教会と信徒たちの日常の中に再現されなければならない。イエス様が足を洗って示された仕えの精神を引き継いで、私たちが互いに足を洗い合い、最後まで愛する生き方をするとき、ようやく世は教会を通して復活の希望を見いだすことになる。張ダビデ牧師が絶えず語り続けるメッセージはこれである。ヨハネの福音書13章に記された「最後まで愛された」という言葉のように、私たちもどのような状況下でも愛することを諦めず、へりくだって仕えるしもべとして生き、この地に真の神の国を証しするようにということである。

これらすべては結局、イエス様が最後の晩餐で弟子たちに教え、ご自身で行われたあの出来事に遡る。弟子たちは互いに高くなろうとして争いを起こし、イエス様はそれに対して「しもべの姿」で答えられた。そしてその直後、イエス様は十字架にかけられ、人類に永遠の命への道を開かれた。その十字架は苦難であると同時に、最も美しい愛のメッセージである。だからこそ、私たちが四旬節はもとより信仰生活のあらゆる場面で、張ダビデ牧師が強調するように「十字架は苦難だが、決して呪いではなく愛である」という御言葉を深く黙想し、最後まで愛する生き方を選び取ることを願う。愛は言葉ではなく、生き方によって証明されなければならず、互いの足を洗い合い、へりくだる態度を通して明らかになる。たとえその道が狭く険しくとも、イエス様がすでに示された模範に倣うとき、私たちは世が与え得ない喜びと復活の希望を享受することができる。「最後まで愛された」という宣言が、私たちの人生と共同体を通して今日も響き渡ることを願ってやまない。

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