十字架に現れた贖いの道 – 張ダビデ牧師

 十字架にかけられたイエス・キリストの出来事は、聖書全体を貫く救いの核心であり、人類の罪と神の愛が劇的に交差する場であると言えます。特にヨハネの福音書19章17節から27節に記録されたイエス様の十字架刑の過程は、他の福音書よりも簡潔でありながら非常に力強いメッセージを伝えています。本本文では、イエス様がゴルゴタと呼ばれる“髑髏の丘”へ行き、十字架につけられる場面がごく短く描写されていますが、その中には計り知れない悲劇と同時に、罪人に対する神の深い愛がありのままに示されています。そして、この場面を黙想するすべてのキリスト者は、イエス様が歩まれた「十字架の道」がいかに苛烈で無残なものであったかを思い起こしつつ、その道がまさに自分のための贖いの道であったことを悟らなければなりません。
 張ダビデ牧師はこの本文を通して、私たちに「イエス様が十字架につけられた時に現れたすべての出来事と姿は、神の御子であるイエス様の無限のへりくだりと献身、そして罪に穢れた世の残酷さを同時に示す証言」であると強調します。この御言葉を土台に、十字架へ向かうイエス様の足取りとその傍らにいた人々、そしてその場に動員されていたローマ兵士たちの姿を一つひとつ深く掘り下げてみたいと思います。ただ一つの小見出しとして、「十字架につけられる」という大主題のもとに、すべての内容を統合して整理しながら、その中に含まれた普遍的かつ永遠の福音の真理と教訓を共に探っていきましょう。


1. イエスが十字架に引き渡される過程

 イエス様が十字架に引き渡される過程を見ると、まずイエス様はピラトの法廷でユダヤ人たちの激しい圧力と偽りの讒訴(ざんそ)によって死刑宣告を受けます。ピラトはイエス様に罪がないことをある程度感じ取ってはいましたが、結局ローマ総督として自らの地位を守り、ユダヤの指導者たちや民衆の暴動を防ぐために、イエス様に十字架刑を宣告してしまいました。それにもかかわらず、ピラトが下した決定の中で変わらなかった一つのことがありました。それは、十字架の上に「ナザレのイエス ユダヤ人の王」という札を貼るという行為でした。ユダヤ人の大祭司や指導者たちは「自称ユダヤ人の王と書け」と抗議しましたが、ピラトは「私が書いたものは書いたままにしておけ」と断言し、イエス様がユダヤ人の王であることをむしろ宣言する形になりました。
 張ダビデ牧師はこの場面を「アイロニー(皮肉)の中に表された真理」と呼びます。ローマ総督ピラトは政治的な計算によってイエス様を十字架に追いやったものの、同時に“真の王”がイエス様であることを自らの手で宣言させられたからです。人間の判断や罪深い思惑が絡み合う歴史のただ中においても、神の摂理は明らかになる場面といえるでしょう。


2. イエスが背負ってまれたゴルゴタの道と贖罪の背景

 イエス様が十字架を背負って歩まれたゴルゴタの道は、ユダヤの伝統的な罪意識とも密接に関わっています。旧約のレビ記16章には「贖罪日」に関する規定が記されています。大祭司は山羊を二匹用意し、そのうち一匹は主にささげる贖罪のいけにえとし、もう一匹は民全体の罪を負わせて荒野に追い出します。罪なき動物が人々の罪を代わりに負って死へと追いやられる、あるいは荒野に放逐されて殺されることで、イスラエル共同体が罪の赦しを受けるのです。このように「スケープゴート(贖罪の山羊)」の死によって民の罪が赦されるというユダヤの伝統は、イエス様の十字架の出来事によって究極的かつ永遠に完成を迎えます。イザヤ書53章もまた、この「苦しむしもべ」のイメージを予言しています。「彼が刺し通されたのは、私たちの咎のためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの不義のためである(イザヤ53:5)」と。主はまるで屠り場に引かれていく子羊のように、何もおっしゃらず黙々と苦難の道を歩まれました。そしてその道が完成した場所がゴルゴタの丘でした。
 張ダビデ牧師はイザヤ書53章とヨハネの福音書19章を合わせて黙想しながら、「イエス様がゴルゴタで十字架を背負って歩かれた時こそ、イザヤ預言者が見た苦難のしもべの預言が成就する現場であった」と強調します。ここで私たちが注目すべきは、主が罪人が負うはずの十字架を直々に背負って歩かれたという事実です。十字架刑は古代ローマの死刑制度の中でも最も残酷で恥辱的な方法でした。ローマ市民権をもつ者はこの刑に処されることはなく、主に被支配民族や極悪犯に宣告され、死刑囚は自分が死ぬ刑具である十字架を自ら担いで街中を回り、処刑場へ向かいました。それは罪人に最大の屈辱を与えると同時に、市民に「反逆すればこのように死ぬ」という警告を与える残酷な意図が込められていました。
 さらにイエス様はすでにユダヤ人たちによる鞭打ちや暴行、あざけりと侮辱によって身体が深刻に疲弊している状態でした。それでもイエス様は黙々とその道を歩まれました。


3. 十字架を代わりに担いだクレネ人シモンの意味

 マタイの福音書27章やマルコの福音書15章によれば、イエス様が十字架を背負って行かれるうちに、あまりの衰弱ゆえ倒れこんでしまわれたため、ローマ兵がクレネ人シモンを無理やり引っ張ってきてイエス様の十字架を代わりに担がせました。シモンは北アフリカのクレネ、すなわち現代のリビア地域から来ており、過越の祭りを迎えてエルサレムに巡礼のためにやって来た際、偶然イエス様の極刑の場面に遭遇したのです。彼は異邦人で、特別な意図があったわけでもありませんでしたが、結果的にイエス様の十字架を担うという“光栄”(?)であり同時に苦しい経験をすることになりました。マルコはシモンを「アレクサンドロとルポの父」と紹介していますが、後にローマ16章13節でパウロがあいさつしている「ルポ」という人物がシモンの息子である可能性が高いとされています。これを通して教会の伝承では、シモンとその家族が十字架の出来事の後、キリスト教共同体の重要なメンバーになったと推定します。
 張ダビデ牧師は「ある人は十字架を無理やり担わされるが、その強制の状況でも主の苦難を共に体験するとき、むしろそれが祝福の通路となる」と説明します。シモンは本来、旅行者として一時的にエルサレムに滞在していただけかもしれません。しかし十字架を担いだあの体験が、彼の人生と家族を変化させたのです。


4. 十字架行列で極まる人間の暴力性とイエスのへりくだり

 このように、イエス様の十字架行列は人間の悪しき制度と権力の暴力性、そして無関心な群衆の視線のなかで頂点に達します。衣服をはぎ取られ、茨の冠をかぶせられ嘲弄され、棒や鞭で打たれながら、カルバリの丘(ゴルゴタ)までその苦しみを耐え忍ばれました。カルバリ(ゴルゴタ)はヘブライ語で髑髏を意味し、むごたらしい処刑の場所という名にふさわしく、辺りには処刑された者たちの骨や髑髏が転がるおぞましい所でした。ユダヤの宗教指導者たちはイエス様を極悪犯と同列に並べようとして、二人の強盗をイエス様の左右に配置し、よりいっそうイエス様を侮辱しようとしました。しかし皮肉なことに、イエス様が両側の強盗の間にかけられたその姿は、かえってイエス様の無罪性と神の救いのご計画を劇的に際立たせる場面となりました。十字架は世の人々にとっては恥と嘲りの象徴でしたが、イエス様を信じる者にとっては救いの力と恵みの御座となるからです。イエス様は強盗たちと同じ刑罰を受けながらも、実際には罪がないにもかかわらず私たちの代わりに死なれた真の犠牲のささげものになってくださいました。


5. 「ナザレのイエス ユダヤ人の王」の札にこめられた

 ヨハネの福音書19章19節以下には、ピラトが書いた名札「ナザレのイエス ユダヤ人の王」について、大祭司たちが憤慨する場面が登場します。彼らは「自称ユダヤ人の王と書け」とピラトに抗議しますが、ピラトは「私が書いたものは書いたままにしておけ」と釘を刺します。この短い対話の中には、一度決まってしまった「ユダヤ人の王」という称号は取り消せないという暗示があります。イエス様は実際にユダヤ人の王として来られたにもかかわらず、ユダヤの宗教指導者たちはそれを拒み、むしろローマ総督ピラトを通してその表現を撤回させようとしました。しかしピラトは自らの権威で書いた文言を覆さなかったので、結果的に全世界に「イエスこそ真の王である」ということを、ローマ語(ラテン語)、ギリシア語、ヘブライ語の3つの言語で同時に知らせる形になったのです。福音書の著者ヨハネは、この出来事に含まれる象徴的な意味を十分に認識しており、読者たちが「十字架の上で完成された神の王権」を理解するように記述しています。
 張ダビデ牧師はこれを「神は人の悪意や小賢しささえも、ご自身の救いのご計画を顕す道具として用いられる」と説明します。すなわち人間は神の摂理を離れ、他の道に進むことはできない存在であり、イエス様を殺すという不正な行為さえも、究極的には神の主権と目的を実現する経路となるということです。


6. 十字架の下でイエスの衣服を分け合う兵士たちと「完全な空(くう)」

 続いてヨハネの福音書19章23節以下では、兵士たちがイエス様の衣服を分け合う場面が記録されています。当時、十字架刑を執行する兵士たちは、死刑囚の最後の所有物を自分たちで山分けする慣習がありました。イエス様の衣服も、四人の兵士がそれぞれ一部ずつを取り、継ぎ目なく織られた下着については裂かずにくじを引いて誰のものにするかを決めました。ヨハネはこの場面を詩編22編18節(「彼らはわたしの着物を分かち、わたしの衣をくじ引きにする」)と結びつけ、旧約の預言が成就したことを示しています。
 しかしこの姿のなかで、私たちが見逃してはならない一つの事実があります。それはイエス様が世において持っていたすべてを奪われ、最後に身を覆う衣さえも兵士たちが分け合おうとする場面が展開しているということです。これは「完全なる放棄」の極みにほかなりません。イエス様は公生涯の間にも「頭を置くところさえなかった」(マタイ8:20)と記録されていますが、最後に息を引き取られる直前には、本当に何ひとつ所有されないまま十字架にかけられたのです。
 張ダビデ牧師はこれを「神であるイエス様がすべてを喜んで捨てられて、究極的には私たちのための贖いのささげものとなられた証拠」と語ります。イエス様は最後の最後までどんな所有権も主張されず、ただ私たちの罪の代価を支払う犠牲として残られたのです。


7. 貪欲な兵士たちと何も持たれないイエス

 この場面で私たちは、二つの対照的な姿を見ることができます。一つは、十字架の下でイエス様の最後の衣服までくじで手に入れようとする兵士たちの貪欲な姿、もう一つは、何ひとつ所有されないまま、すべてを私たちに明け渡してくださったイエス様の姿です。世の中は貪欲な兵士のように他人のものさえ奪い取ろうとしますが、イエス様はご自分の権利を主張されず、すべてを私たちのために差し出されました。この対比は、すなわち人間の罪性の顕著な一面と、神の愛がいかに完全な犠牲であるかを同時に思い起こさせます。したがってキリスト者は兵士たちのような姿ではなく、十字架の上ですべてを注ぎ出されたイエス様の歩みを心に刻むべきです。これは、今日の「所有」に執着する現代人にとって強烈な挑戦を与えます。貪欲から離れ、十字架のイエス様を見上げながら謙遜と分かち合い、そして自己犠牲の道を歩むことこそが、本当のキリスト者の生き方です。
 張ダビデ牧師は「教会がしばしばイエス様の十字架のもとでさえも、各々が分け合う分を巡って争っているような姿と似てしまうことがある」と指摘し、「私たちはいつでも十字架の下で『何ひとつ所有されなかった』主を仰ぎ見て、所有と貪欲を悔い改めて捨てる決断へと進まなければならない」と勧めます。


8. 十字架のそばにいた女性たちと「互いを委ねる」イエス

 次にヨハネの福音書19章25節を見ると、イエス様の十字架のそばにいた幾人かの女性たちの名が登場します。イエス様の母マリア、イエス様の叔母サロメ(マルコの福音書によればゼベダイの息子ヤコブとヨハネの母でもあるとされる)、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアがその現場に立っていました。一般的に、当時の女性たちは社会的地位が低く、男性の弟子たちのように公的な弟子としての召しを受けてはいませんでした。しかし、皮肉にも十字架の最後の現場にまで残ったのは、まさにこの女性たちでした。そこは極悪な処刑が行われる恐ろしい場所でした。十字架に処刑される罪人の近しい者と思われれば、ローマ当局から連帯責任を問われる可能性もある場所でした。それにもかかわらず、彼女たちはイエス様の最期の瞬間を見守るためにそこに留まったのです。これは「愛のうちには恐れがない」(第一ヨハネ4:18)という御言葉を生々しく証しするものです。
 張ダビデ牧師は「真に主を愛する心があれば、いかなる脅威や恐怖もその足を止めることはできない」と語ります。そしてイエス様はこの女性たちを見つめられながら、母マリアと愛する弟子ヨハネとに互いを委ねられます。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。ご覧なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26-27)というこの御言葉は、イエス様がご自分の肉の母に対して最後まで配慮を示された深い孝心を表すと同時に、キリストの共同体の中で「信仰によって結ばれる新しい家族」の概念を提示する節でもあります。


9. 十字架の上から示される「新しい家族」と神のの共同体

 実際、イエス様は公生涯の中で「私の母とは誰か、兄弟たちは誰か。誰でも天の父の御心を行う者が私の兄弟、姉妹、母なのだ」(マタイ12:48-50)と語られました。イエス様にとってマリアは肉体的な母でありつつも、主の道を歩むべき信仰の弟子の一人でもありました。ゆえに十字架上で「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と呼びかけられた時、それは単なる肉親的な母子関係以上の意味を帯びています。イエス様を信じ従う者ならば、誰でも神の子として互いを顧みるべきであり、主にあって一つの家族となる、ということを宣言されたのです。このようにイエス様は、十字架上の極限の苦しみの中でも神の国の共同体の原則を確立され、残される者たちに対する愛を最後まで与えられました。


10. イエスの生涯を締めくくる十字架の出

 十字架の出来事を通して、私たちはイエス様の生涯全体が一つの大きな叙事詩のように完成される瞬間を目撃します。イエス様は受肉(肉体を取って人となられる)されることで私たちと同じ身体を持ちながらも、罪を犯されなかった方です。そして公生涯の間、天国の福音を伝えられ、貧しい人や病人を癒し、罪人や取税人、娼婦にまで近づいて救いの希望を告げ知らせました。最終的にユダヤ指導者たちの嫉妬と民衆の誤解のうちに極刑を宣告されましたが、それらすべてを受け入れ、十字架で息を引き取られます。人間から見れば悲劇ですが、神の視点から見ると、罪に満ちた世に対して独り子を与えられた最も深い愛であり、聖なる贖罪の出来事でした。
 張ダビデ牧師は十字架を「神の愛と正義が互いに口づけする場所」と表現し、その理由を「十字架は神の極みまで及ぶ愛が示されると同時に、罪の代価が支払われる正義が完成される地点であるから」と説明します。


11. 過越の祭りとイエスの十字架

 過越の祭りという背景もまた、十字架の意味をより鮮明にします。旧約時代、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいる最中、子羊の血を塗って死の使いが通り過ぎるようにし(出エジプト12章)、これを記念して毎年過越の祭りを守ってきました。ところがイエス様の十字架の死はちょうどこの過越の期間に起こりました。これは単なる歴史的偶然ではなく、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)であるイエス様が、全人類の罪の代価をただ一度で完全に支払われることを予表し、かつ成就するものです。キリストが十字架で流された血によって、罪人である私たちは永遠の死の刑罰から解放され、神と和解が与えられました。まさに過越の子羊の血が出エジプトの出来事でいのちの防壁になったように、イエス様の血が罪人を救う力になるという点が、ここで劇的に強調されるのです。


12. 十字架を背負う行進は「死への行進」ではなく勝利の行進

 イエス様が十字架を背負って進まれる道は、単なる死への行進ではなく、人類救いの使命を全うする勝利の行進でもありました。外見上は嘲りと侮辱、苦しみと血にまみれた惨めな敗北のように見えたかもしれません。しかし霊的現実においては、罪の権威と死の権威を打ち砕いて勝利される神の国の宣言でした。イエス様の最後の言葉が「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)であったことからも、この道が敗北ではなく完成であることが明らかになります。私たちが十字架を見上げる時、ただ悲しみと痛みに留まらず、その向こうにある復活の勝利をも見なければならない理由がここにあります。十字架はイエス様の復活によって永遠のいのちへの門となり、キリスト者にとっては「神と和解した平安の土台」となったのです。


13. 十字架を想するときに得る二つの重要な適用点

 このように聖書に記録された十字架の出来事を深く黙想するとき、私たちは二つの重要な次元での適用点を悟るようになります。
 一つ目は、イエス様が「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と仰せられたとき、それは決して抽象的な倫理的命令ではなかったという事実です。イエス様は自分を殺そうとする者たち、ローマ兵や宗教指導者たち、そして群衆の嘲りと暴力を身をもって受けながら、彼らに向かって「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られました。口先だけで愛を宣言したのではなく、ご自身の身体で悪意と憎しみをすべて受け止め、それでも呪いや復讐を叫ぶことはなさらなかったのです。主は善をもって悪に打ち勝たれ(ローマ12:21)、敵にさえも救いをもたらす神の愛を十字架で示されました。
 張ダビデ牧師はこれを「イエス様が教えられた言葉と実際の生き方が完全に一致していた決定的証拠」と説明します。私たちもイエス様に従うのであれば、家庭や職場、社会や人間関係のなかで、憎しみと怒りを捨て、十字架の愛を実践しなければなりません。それがイエス様の弟子として生きる道です。

 もう一つは、十字架は「互いの重荷を負い合う共同体」へと私たちを招くということです。ガラテヤ6章2節でパウロは「互いの重荷を負い合い、そうしてキリストの律法を全うしなさい」と語ります。イエス様が私たちの罪や呪い、弱さを負われたように、私たちも互いの悲しみや苦しみ、欠乏や傷をともに担う共同体にならなければなりません。十字架とは、徹底的に他者のための犠牲であり、分かち合いです。ですから本当に十字架を黙想し、信じるならば、「自分だけが救われた」という個人的満足にとどまるのではなく、教会と隣人に仕える生き方へと繋がっていくのです。特に教会共同体の中で弱い肢体がいるなら、それは自分自身の問題であると認識し、積極的に助けの手を差し伸べることこそが、十字架の精神を具体化することに他なりません。
 張ダビデ牧師は「十字架の信仰は、決して独立した『私』の信仰だけでは存在しえない。主が血を流して建てられた共同体の中で互いに連帯し、互いの重荷を分かち合う時、十字架は教会の中で現在の力として生き働くようになる」と語ります。


14. 十字架のそばに立った女性たちと弟子ヨハネ、そして今日の教会

 最後に、イエス様の十字架のそばに立ち続けた女性たちと弟子ヨハネの姿をもう一度考えてみましょう。男性の弟子たちは多くが恐れて逃げ去りましたが、弱々しく見える女性の弟子たちは最後まで残り、主を見守りました。そしてイエス様は彼女たちに言葉にならない慰めと託すべきことを語られました。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」「ご覧なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:26-27)というこの言葉は、肉の母を思いやるイエス様の最後の家族愛の表現であると同時に、信仰によって結ばれる霊的家族に向けた宣言であるとも言えます。
 これからイエス様は十字架を通して新しい救いの歴史を完成され、その信仰の中で互いを世話し合い、結び合う教会を誕生させていきます。この場面は、今日の教会がどうあるべきか、そして私たちが十字架の前でどんな心で主と共に歩むべきかを、いっそう明確に教えています。


15. 十字架の中心的メッセジ:贖い、救い、新しい共同体の希望

 結局、十字架につけられたイエス様の出来事を通してヨハネの福音書19章17節から27節までに示される核心メッセージは、第一にイエス様が罪人のためにすべてを捨て、死に至るまで担われた贖いの犠牲であり、第二にその犠牲によって人間の救いが可能になったということ、第三にその犠牲を心から受け入れる者たちに主は新しい共同体の家族愛と復活の希望を与えてくださるという点です。十字架を見上げる視線は、ただ悲しみに終始するのではなく、その深い苦しみの奥にある神の愛と力を認識することへと進まなければなりません。また、十字架の出来事が私たちの生活のあらゆる領域で再現されるよう、敵をも愛し、互いの重荷を負い合い、神の国を拡張することに尽力すべきです。
 張ダビデ牧師は十字架の黙想の結論として、「私たちも自分が背負うべき十字架を避けてはならない」と勧めています。イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしに従って来なさい」(マタイ16:24)とおっしゃいました。この「自分の十字架」とは、自分の利己心や罪性、世的な欲望を下ろして、イエス様を見習い隣人を愛し、神の国を建てるために犠牲することを意味します。クレネ人シモンのように、あるいは強制的に十字架を担わされる場合であっても、その中で思いがけない祝福と霊的目覚めが起こることもありえます。結局、私たちはイエス様を信じ従う弟子として、主の歩まれた十字架の道を具体的に実践しなければならないのです。


16. 十字架の出事に凝縮された約から教会共同体までの救いのドラマ

 このようにヨハネの福音書19章17-27節に示されるイエス・キリストの十字架の出来事は、旧約の贖罪のささげものや苦しむしもべの預言、新約における罪の赦しと救いの成就、そして教会共同体の出発までも圧縮して描き出しています。ゴルゴタという髑髏の丘にかけられたイエス様の姿はあまりにも無残に見えますが、神の救いのご計画の中では最も栄光に満ちた勝利の場でもあります。暗闇と死が支配するこの世のただ中に、光といのちとして来られたイエス様は、十字架で死の権威を破り、復活を通して神の国がすでに到来したことを宣言されました。そしてその方を信じるすべての人に、罪の赦しと永遠のいのち、新しい生き方の基準と希望を与えてくださったのです。
 私たちがこの事実を思い起こすたびに、心は燃やされるべきです。エマオへ向かう弟子たちが復活されたイエス様と御言葉を分かち合う時、「私たちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)と告白したように、十字架の出来事を思えば思うほど、私たちの霊の奥底から感激と感謝が湧き上がるはずです。イエス様が単なる偉大な師や哲学者ではなく、「私のためにいのちさえ投げ出してくださった救い主」だということを、より完全に悟る必要があります。その悟りこそ私たちの日常に波及力をもたらし、利己心や貪欲、怒りや憎しみ、不安や心配を贖いの愛によって溶かしていく原動力となるのです。
 張ダビデ牧師は「十字架を握る者は決して元の生き方に戻れない」と言い、「キリスト者であるならば、十字架の愛に捕らえられた人として、日々新しく変えられていかなければならない」と力説します。


17. 十字架の結末:愛と義、死と復活が交わる神の決定的救い

 結論として、イエス様がゴルゴタの丘でご自身の十字架を背負い、死に至るまでそれに耐え忍ばれたのは、罪のために死ぬしかなかった私たちすべてを生かすための神の決定的な救いの行為でした。その日、多くの人々はイエス様の死を嘲り、互いの利益を得ようとし、あるいは見て見ぬふりをしましたが、わずかな女性たちと愛する弟子ヨハネは最後まで主のそばに留まり、その苦しみと悲しみを共にしました。そしてイエス様は十字架の上においてさえ、自分を打ち付ける者たちを赦し、母を弟子に託し、「成し遂げられた」という宣言をもってすべての贖いの働きを完了されました。十字架は一人の人間が惨たらしく殺されていく事件であると同時に、神が罪人を再び抱きしめる愛の始まりであり、復活への扉を開く鍵でもありました。だからこそ、私たちはヨハネの福音書19章に記録された十字架の出来事を、単なる悲劇的な歴史上の惨事と見なすだけではいけません。その中には、宇宙の支配者である神の聖なるご計画があり、神の正義があり、何よりも計り知れない愛が秘められています。教会がつかむべき中心的真理はまさにここにあります。「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された…」(ヨハネ3:16)という聖句が、十字架の上で完全に現実になったのです。


18. 現代を生きる私たちへの適用:十字架がもたらす平安と喜び、そして自由

 今日の私たちもイエス様の十字架を黙想するならば、人生の方向が変わらざるを得ません。貪欲と物質主義、無関心と怒りが溢れる世の中で、進んで自分をささげ、隣人に仕え、真理の道を歩むことは容易ではありません。しかし、イエス様が辿られた道を思い起こし、聖霊の助けによりその道に従うとき、私たちは世が与えられない平安と喜び、そして真の自由を味わうことができます。
 張ダビデ牧師は「十字架以外に誇るものはなく、十字架なしにはいのちがない」というパウロの告白(ガラテヤ6:14)をよく引用し、「十字架こそ教会のあらゆる基礎であり、またすべてのいのちの源泉である」と語ってきました。その言葉通り、教会と聖徒の真の力と栄光は、華やかな外形や世俗的な富にあるのではなく、イエス様と共に十字架の死と苦難を絶えず思い起こし、その愛を実践するところから生まれてくるのです。


19. 十字架を見上げる信仰こそがキリストの核心

 結局、「十字架につけられるイエス様」を仰ぎ見る信仰こそが、キリスト教の核心です。キリストの贖いによって罪人である私たちは義とされ、その愛ゆえに私たちは今日も悔い改めて立ち返り、恵みのうちに新しいいのちを得ています。これがなければ、キリスト教の信仰は空虚な殻に過ぎないでしょう。十字架があるところにいのちがあり、そこではじめて復活の栄光にも至るのです。だからこそ私たちは日々十字架を仰ぎ、その道を歩み、他の人々にもキリストの愛を伝えなければなりません。ヨハネの福音書19章17-27節から始まったこの十字架の物語は、最終的に復活の朝にまで続き、新しい歴史の幕を開けます。そして今日に至るまで、全世界の多くの聖徒たちがこの福音の光の中で生かされ、十字架の愛と真理を伝え続けてきました。


20. 最後に

 これらすべてを要約するならば、「十字架につけられる」という偉大な出来事は、罪人である人類に向けられた神の最も極端で決定的な愛の表現であると同時に、罪と死の勢力を永遠に滅ぼす勝利の象徴でもあります。張ダビデ牧師はこの場面を「人類史上、最も偉大な逆説の現場」と呼びます。それは、死と敗北、恥辱と侮辱が渦巻くように見えた現場だったにもかかわらず、実はそこにこそ神の栄光と権威、そして最も深い救いが実現したからです。十字架の前で人間の高慢や欲望、不義や残酷さはことごとく曝(さら)け出されますが、同時に無限の愛と恵み、そして復活の希望が表されるのです。だから私たちはこの贖いの現場である十字架を握りしめ、己自身と教会共同体、さらに世界に向けて、キリストの救赎のわざにあずかる者となるべきです。これこそ十字架の出来事が今日、私たちにとって「生きた福音」として適用される道にほかなりません。
 イエス様の十字架を通して罪の赦しと救いが訪れたという真理を再び心に刻むならば、私たちの礼拝も祈りも、そして隣人愛や奉仕、福音宣教もすべてが変わらざるを得ません。私たちはもはや闇に属する者ではなく、貪欲と利己心に囚われて生きる存在でもありません。イエス様が示してくださった「自分を捨てる愛」を日常生活の中で再現し、ゴルゴタの丘で流された血の意味を握りしめて生きていくとき、私たちそれぞれの人生と教会は、真の力と喜びに満ちあふれるようになります。これこそが「十字架につけられたイエス・キリスト」を信じる者のアイデンティティであり使命です。そして張ダビデ牧師は、こうした事実を常に教えてきました。「私たちの信仰の入口ごとに十字架が先立ち、十字架が私たちの人生全体を支配すべきだ」。十字架なしには何ひとつ完全なものはあり得ないことを深く自覚しながら、日々の歩みのなかで主の十字架の愛を黙想し、その愛を隣人やこの世に注ぎ出すことこそ、真のキリスト者の道なのです。


 結局、十字架は宗教的なシンボルや形式的な飾りではなく、生ける神の御心そのものです。御子イエス様の従順と犠牲、御父なる神の偉大な愛、そして聖霊の力が一度に集結した出来事がまさに十字架なのです。そしてその道は「自分の十字架を負って主に従う道」へと私たちを招きます。罪と死に打ち勝ち、復活されて今も生きて働かれる主を信じるのならば、「主よ、私の十字架を担ってあなたについて行きます」と告白せずにはいられません。この告白が私たちの口先にだけ留まらず、実際の生き方となるためには、日々十字架を握りしめ、イエス様の御心に倣う地道な霊的訓練が必要です。その訓練のうちで、貪欲や高慢が溶かされ、無関心が愛へと変えられ、葛藤が和解へと続く奇跡を体験するようになります。
 ですからヨハネの福音書19章17節から27節に記されたイエス・キリストの十字架の出来事は、歴史上最も悲惨な悲劇であると同時に、最も輝かしい希望の瞬間でもあります。私たちがこの出来事を黙想するたびに、張ダビデ牧師が強調したように「十字架こそが私たちの道であり、真理であり、いのち」であることを決して忘れてはなりません。キリスト者として召された以上、もう一度決心しなければなりません。イエス様を嘲った群衆でも、十字架の下で最後の衣まで奪おうとした兵士でもなく、むしろクレネ人シモンのようにイエス様の十字架をともに担い、あの女性たちやヨハネのように最後まで主のそばを守り、その愛に感謝して自発的な献身で応える弟子になりたいのです。そして十字架で示された赦しにあずかり、どんな敵でも愛し合い、互いの重荷を担いつつ、この地で神の国を打ち立てていくことに情熱を注がなければなりません。十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る時、その傷から流れる血潮が私たちの罪や傷を清め、私たちの教会や共同体、社会や世界までも回復させる力となることを、信仰によって宣言すべきなのです。
 結局、「十字架につけられる」というテーマは、信仰の本質を凝縮した結晶であり、私たちの信仰の出発点であり到達点でもあります。イエス様の十字架なしには教会も救いも弟子道も、復活も永遠の命も存在し得ません。張ダビデ牧師が幾度も説教を通して強調してきたように、私たちはこの十字架を常に心に抱いて生きなければなりません。たとえ世の風潮が変わり、歴史の流れが荒れ狂おうとも、十字架の上に表された神の愛と救いは決して揺るがないのです。だからこそ十字架の前にへりくだってひれ伏し悔い改め、感激と感謝をもって主を礼拝し、私たちの小さな生活の中であっても十字架の恵みを分かち合うことが、私たちの抱く最高の喜びであり特権です。この恵みを日々思い起こすならば、世が与えることのできない平安と慰め、そして力を得るようになるでしょう。
 どうか「ヨハネの福音書19章17-27節」という短い本文を通して、イエス様が歩まれた十字架の道をいっそう深く仰ぎ見ることができますように。その道は単に1世紀エルサレムの歴史的出来事にとどまらず、私たち信じる者の心と共同体のうちに今も甦る「現在進行形の恵み」です。張ダビデ牧師によれば、この恵みこそが教会と聖徒を絶えず目覚めさせ、世の隅々にまで救いの知らせを届ける原動力となるのです。私たちは十字架を通り抜けなければ復活の栄光に到達できず、十字架の上で死ななければ真の新しいいのちを得ることはできません。キリストが示された十字架の愛に心から感謝し、私たちもそれぞれに委ねられた十字架を担い、主に従う決断を新たにする時とされますように。十字架につけられたイエス様こそ私たちの真の王、大祭司、そして救い主です。その王の民として、大祭司から託された務めを引き継ぐ者として、その救い主の恵みを世に宣べ伝える者として生きる時、私たちも十字架の力のうちに日ごと新たにされるのです。

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